好きなこと

子どもの頃、自分のやりたいことを制止されることほど腹立たしいことはなかった。
何をもって子どもかと言えば、好きなことをさせてもらえることが子どもだと思っていた。

それを大人たちは理由も説明もせず、いきなり制止して自由を奪うようなことをする。
そのことにとても傷つき泣いていたことも思い出す。

子どもの頃は誰しも、自分のやりたことが見守られ、好きなことをさせてもらっても大丈夫といった大自然や偉大な親心というものを身近に感じていたように思います。 それが次第にやってはいけないことが増え、周りを見てはやってはいけないのだろうと億劫になっていく中で次第に世間の言う大人になったのだろうとも思います。

なぜ子どもがあれほどまでに好きなことをしたいかというのは、そこに天命への気づきがあるのではないかと私は推察しています。自分に与えられた天からの命がそれをさせるのであろうとも思います。

人間は生きていく中で自分にどのような天命があるのかを探し、道に出逢いついに辿り着いていくものであろうとも思います。ではその道はどこからがはじまりでおわりかと考えれば、生まれてきたときがはじまりで死がおわりであると一般には定義されます。

しかし実際の道は、いつまじまりいつおわるかもなく円環しているように無限に続くのであろうとする直観もあります。だとしたら、生まれたときにはすでに道に出逢っているのが子どもであろうとも思います。その子どもに道を忘れさせたり、その子どもに道を外れさせるのが大人のやることでしょうか?

大人は自分自身がまず道を歩み、その道を通じて子どもと接するのであれば当然見守ることが最善であるのはすぐに気づきます。子ども達のやりたいことを好きなことをやらせてあげるというのはその子が天命を知り、天命に生きるためには必要なことであるのです。

今の時代は、あんなに幼い初心な魂にまで余計な刷り込みを当て込みその子たちの大好きなことを我慢することから教え込んでいきます。もう少し発達というものの奥にある本質や秘宝をよく鑑みて学び直すことだと思います。

私の仕事はやはり終始一貫子ども心を見守ることに通じています。
それは天が天であることを知り、天を大好きなままでいる子ども心がそうさせるのだと思います。

人間がみな、自分の好きなことをして生きられる世の中が幸福な世界であると思います。
この好きなことは感情の好きではなく、天が与えた特別な好きであることを言います。

まだまだ自分自身の実践を積み上げていこうと思います。