誓う日々

環境や状況から学びというのはいくらでも深めていくことができる。
いつのときも自分の都合よくいくものといかないものがあるのも学びのためでもある。

時代によってある程度、自然な流れというものがある。

どうしようもないものを受け容れるからといって、それで何もしなくていいというわけではない。
その現実を受け容れつつも、自分がどうするのかを決心することが人の道なのだろうと思う。

何かの真実を知る時、憤慨することもあろうし、 受け容れ難いこともあろうとするのが人間でそれを避けようとしてはいつまでも外側の状況ばかりを変えようとするものです。

しかし現実を受け容れてから、どうするかのほうが大切なのはそれが真実だからだとも思います。真実を受け容れる力というものは、やっぱり素直かどうかという気もします。素直になれば相手はいなくなり、他人のせいにはしなくなるものです。

自分がそこから何をし、何を為すか、そしてそこから何を学ぶのかに行き着くからです。

学ぶというのは、全体の中で自分が大切な役割を担っていることを自覚することのように思います。一物が全体となっていると知れば、自分を如何に怠らずに勤め上げるのかはいのちのすべてが呼吸を繰り返すかのようなものです。

例えそれが大海の中の一滴の雫だったとしても、そこに確かな意義があり、またそれが吹けば飛ぶような小さな塵であったとしても、そこに一体となった真実との絆があること。

そう思うのです。

子ども達やいのちのことを思えば、受け容れ難い現実ばかりがあるようにも感じます。
時には、遣る瀬無い気持ちに心が滅入ってしまうこともあります。

しかし、希望を捨てず諦めず、自らの本業を遣り続けていくことだろうと思います。
この灯を絶やさせはしないぞと心に誓う日々です。

支配と共生

何かを支配するという考え方というものは、そもそもどこにでも存在する。
それが戦争から金融や石油に代わるだけで、支配するという考えはなくならない。

そもそも自分のものではないものを自分のものにしたいという考え方は、共生していこうという考え方から外れている。お借りしているや、来ていただいている、御蔭様などという気持ちで接するのはそもそも共に生きる方を優先したからでもある。

欧米では個人主義を基盤に、様々なルールを設けてそもそもバラバラであるものを繋げようとする。一見、個人の自由は尊重されているようだけれどそのためには集団のルールに従ってもらうといった暗黙的な約束事がある。

私たちアジアでは、そもそも皆で仲良く調和していくことや、周りと一緒にというもともと一つであるということから繫がりを大切にしてきた民族である。一見、集団を優先し個人の自由がないようにみえても実はその中で道徳規範に従ってそれぞれに個人が律して皆の自由を尊重している。

この繋がりや絆というものは、そもそも個がバラバラからスタートしているのと、個が一つからスタートしているのではまったくその定義も異なってくる。

繫がりや絆というものは、共生していく中で出てくる言葉であり、それぞれが自生していると勘違いしている中で芽生えるものではない。

一つの大地に、たくさんの生き物がいることを知ればそれはすぐに分かることなのです。

私たちは、子ども達に教えるのはルールなのでしょうか、それとも繋がりや絆なのでしょうか。
支配するためのものか、共生するためのものか。

本来の在り方を学び、人としての道を学ぶことはいのちの廻りを絶やさないことなのです。
色々と起きる毎日ですが、自分の使命は次第にはっきりしてきます。

有難うございました。

いのちの廻り

永い時間をかけて廻ってきたものにはいのちがある。

絶やさないように、続きますようにと祈りながら私たちは自然の働きに合わせて働いてきた。
それがいつからか人間の働きにあわせて自然を働かさせようと考えるようになった。

そしていのちの廻りというものが凄まじい勢いで減退していく。
そんな時代に生きている。

いつも思うことは、古き善き友とともに歩む道。

その道がどこまで続こうとも、どんな困難があろうとも友がいるから仲間がいるから私たちは一緒に成長し、また還ってきた。

それが私たちが太古に交わした約束であった。

古き善き友人を迎えに行こう。
そしてその友とまた一緒に歩んでいく道を選びたい。

いのちの廻りを思うとき、まだまだ智慧は失われず、まだまだ精気は漲っている。
子ども達の未来のためにも、根源と心の故郷へ 回帰しよう。

廻りゆくいのちに、新たな境地を学びます。

心考実行

何かの物事が起きるとき、それをどれだけ深く考え切ることができるかがある。

一見、何も意味がないように感じる事でも心で湧き出てくることを大切にしていたら長い時間のあとに大変な意味が出てくることがある。または、その逆もあり後になってやっておけばよかったと反省するようなこともある。

何かの物事は自分で考えている以上に、将来に必然的な意味があり目先に一喜一憂するようではまだ物事に集中しているとは言わないのだと思います。

よく脳が嫌がってもと言い方をすることがあるのですが、自分の脳が避けようとしても心に浮かんで感じたことを信じる力というのはどれだけ日頃から決心する習慣を持っているかということになるのだと思います。

この決心とは、頭で考えずに心で決めることを言うのだと思います。
そしてそれは頭では判断できなくても、心が望むのだから遣るのだという意志です。
そしてそれこそが自分が遣るのだと強く思うことであろうとも思います。

他人はすぐに目先に行為に対して見返りを求めるのは信じるよりも本当にメリットがあるかどうかなどを疑ってしまうからであろうとも思います。

しかしそもそもそれは生き方という心が決めた方が人生の舵取りをしているのだからこそ、如何によい理念、理想、信念といった盤石な根がなければ信じる方を決心している方を優先することができなくなるのだと思います。

頭で考えないためには、丹誠を籠めた日々の丁寧な真心の実行の積み重ねが必要になります。なぜなら、それが心で決めた方を継続するとも言えるからです。

目には観えないものを大事にするには、心で実行しながら考えるということの積み上げてあるのだと思います。繊細な配慮ができつつ思いやることなど大切にしていきたいと思います。

改善の本質

素直な人は、いつも先に自分から受け容れようとする姿勢がはっきりしているように思う。

例えば何かの事象でも今の悩みなども自分がまず自分から先に受け容れようとしなければ他人の話は額面通りに聴くこともできないし、表面上だけを上滑るものです。素直な時は、いつも自分から改善しにいこうとしますが、そうでないときは他人から言われるばかりになりしかもそれをいつまでも繰り返し聴かされていたりします。

自分のこだわりや自分の我からの執着が強ければ強いほどに、自分から素直に聴き容れようとするのではなくただ聞き流そうとするのだと思います。

そう考えると、素直かどうかを思うとき、どれだけ自分から現実を受け容れ、ありのままの自分に寛容であるかというのは大切な事であろうとも思います。仕事でもそうですが、自分がこれは嫌だと思っている部分であったり、これは避けたいと思っていること、もしくは何かしら自分に都合が悪いと思っている話はやっぱりよくよく自他を観察すると素直に聴いているようには見えないことが多いのもこの理由なのです。

今の自分がいくら頑張っても何ができて何ができないのか、その理由、そしてなぜかということもありのままに聴き容れることができればそれで問題は解決することが多いのです。しかし問題がいつまでも先送りされるというのは、聴き容れないから聞き流すことになり先送られるのだとも思います。

今、そうなってしまった現実を如何に受け容れるか、それは失敗からどれだけ学ぼうとしているかに由るのです。つまり失敗というものを悪いものとして考えるのではなく、失敗は次への学び、成長の証であると思えるかということなのです。善いものと悪いものがあるという時点で正しく学べず、正しい学びとは善悪問わず学びにしていくこと、そしてそれが改善の本質であろうとも思います。

成功も失敗も常に学びであると定義されれば、如何に現実を改善しようかと何度も振り返り直していけばいいのです。それを成功で有頂天になり、また失敗がいつまでも受け容れられないとなっていては、両方ともその学びから逃げることになり改善されないままになってしまうのです。

一般的に失敗がよくないものになるのは、過去に深く自分を責めたからであろうとも思います。

自分を責めすぎた分、自他を責めすぎそうしているうちに失敗は学びではなく悪いものになったのです。成功も失敗もその過去に囚われるのは今に前進し続ける勇気を減退させてしまうものです。

だからこそ、どんな時も失敗は学びであったとし、その失敗を次に活かすことで過去の出来事の敵討ちをしより一層貢献しようと転じたところに真の素直さがある気がします。同じように成功も、どんな時も成功は学びであったと、その成功から次に何を活かすかで同じく過去の出来事の感謝をより一層の貢献に転じようとするところにもまた素直さがあるのです。

改善するとは、常に学び続けていくということであり偏らないということなのです。

つい今までの刷り込みに負けてしまうことも多いですが、学びを次に活かすことを優先する実践で子ども達にも希望を拡げていきたいと思います。

理想と現実の真実

現実というものを理解するというのはその問題の本質を正面から向き合い、見たくないものも正しく見ようとしなければそれをすることはできない。

すぐに人は現実と理想のギャップを受け容れるのを嫌がり、真実を歪めて現実をいつまでも彎曲してしまい問題をすり替えてしまうことがある。理由には、自信がなかったり、傷つきたくなかったり、あまりにも受け容れ難い何かがあったりと様々だけれどそこを避けて通ろうとすればその歪は必ず現実世界で起こるのです。

例え仮にその場は乗り切ったとしても現実は何も変わらなくまた追ってくるように、本当の問題に直視しそれを解決できなければいつまでも変わらない現実に悩み苦しむことになるのです。

直視するという力は、まるで心の胆力のようなものであろうとも思います。そしてそれは、本当の問題へと近づこうとする素直な心が必要であろうとも感じます。

しかし保身や自利などから自我の様々な感情があるからこそ目先に囚われてしまいます、だからこそ理屈にするのではなく真心からそれを思いやる実践を増やしていかなければ真実というものは顕われないのだとも思います。

この理想と現実の間には、いつも確かな真実という存在がある。
そしてこの本当は何かと探求していくことで、確かな真心が試されるのです。

真心で実行できるようになるというのは、その理想と現実を正しく理解し心身が一体化して物事に取り組み正しく行動できるようになるとも言えるのだと思います。

子ども達には大人たちの自分勝手な歪んだ夢を押し付け、さらに画一された社会の歪んだシステムを教え込むのではなく、もっと真実を観る目を養い、真心の実践を増やしていくことこそ必要であるのだと思います。

それは、きっと相手にも何かあるのではないかと思えるような心の豊かさも必要です。

思いやりはカタチがないからこそ言葉で教えられるものではありません。
親の心を心として、実践を積み上げていこうと思います。

有言実行

他人に何かを指導するには、それを言うまえ自分がそれをやっていなければ伝わることはなく何でも自分自らが実践しているから相手にその重要性が伝わるのだと思います。

論語にこうある。

「子貢、君子を問う、子曰く、先ずその言を行い、しかる後にこれに従う。」

意訳になりますが、子貢が正しく立派な人とはどういうものですか、すると先生は仰った。まず黙ってその言おうとすることを先に行い、そのあとにそれをはじめて口にして教えるような人のjことです。とあります。

このように、孔子は言葉で何かの言い訳をする前にまずは実行することの大切さを説いています。

どうしても頭でっかちに勉強をし、正しく学問という思実合一を遣り切っていないとすぐにそういう言葉ばかりを並べたてるような学び方になってしまいます。そうなってしまえば、気づくということや気づきというものが実際にどこまで深いのかも分からないうちに自分で勝手に判断してしまうものなのです。

そのように気づきを得ている気になり行動することや実行することよりもただ考えるだけになってしまったりやった気になってしまうことは学問をしていくのにはとても危険であるのです。

何よりも言うだけではなく行動することは、そもそも日々の気づきを何よりも重んじているともいえます。しかし行動も実行もせずに、ただ机上のものを何となく乱読乱聞していても実際には一つの行いの方が遥かに価値があることが多いのです。

今までの経験からの自分なりの考えがあったにせよ、真心を優先せずに行動をしないというのはそれは実際に何も役に立たない勉強ばかりを溜めこんでいることになるのです。実際には、何でもそうですが自分の真心を行うことを優先し、相手からどう思われるかなどというものを意識するのは本当に真心のままに行動しているわけではないのです。

信頼関係というものもそうですが、まずは黙って行うことが御互いの関係を良好にしていきます。言って行わないというのでは、信頼関係が希薄になっていくことになるのです。

気づきの鍛錬において言葉ばかりでやった気になることは何よりも戒めるところです。
言葉にするということは、必ず命懸けでやり遂げるという覚悟が同時必要なのです。

それだけ言葉は重たいのです。
その言葉が自分を創り、その言葉がこの世界を創るからです。

有言実行を重んじ、何よりも自ら決心したことは遣り遂げてから語るようにしようと思います。

 

最先端

今の時代は、元々長い間積み上げてきたものがあっという間に消失してしまうようなことが増えている。情報化された中で、目新しい技術や科学ばかりが善いものだと思い込まされ、さもそういうものが最先端であるかのような錯覚を持たされている。

このIT技術にしても、流行にのって目新しくしていくことでさもそれが価値があるかのように宣伝し人々の意識化をコントロールしたりするようになっている。何でもそうだけれど、最先端というものの定義は果たして目新しいものであるのかと思ってしまう。それは別に最先端技術ではなく目新しいだけであるだけなのです。

実際の最先端とは、そうではなく普遍的な技術といった自然の智慧をカタチにしたものや、いつまでも変えてはいけない大切なものだったりするのです。

昔から変わらない普遍的な技術は、過去の人たちが自分の人生を総結集し何代にもかけて磨き本物にしてきた叡智である場合が多く、それは今の時代も機械でもITでも科学でも達せない領域までの最先端のものであるのです。

そういうものを観えなくなるのは、自然を観なくなるからだと思います。そしてそれは自然をお手本にすることをやめたからでもあるのです。私たちは、昔から変えてはいけないものはすべて自然を通してみていたのだと思います。それが今は、自分の目先や手が届くところばかりでさも目新しいものばかりを求めるようになっています。

物が溢れたと同時に、そういう本来私たちが永い間共に生きてきた発達の記憶も一瞬にして忘れ去られているようにも感じます。そしてそれは人間を弱体化させるだけではなく、その今の定義された技術では人間の身近なものすべてを弱くしていくのです。

その弱くとは、本来の叡智や智慧というものを観えなくするものであり感じる力や気づく力もどんどん落ちて消失していくのだと思います。

養鶏でもそうですが、どんなに科学でたくさんの卵を産ませてさも凄いことだと高々に誇っても本来の自然が生み出しているものは誰にも創りだすことはできないのです。目先の目新しい技術が自然の科学を超えることは絶対にないのです。

いい気なものですが、この傲慢さが今の社会の未熟さを露呈しているのだと思います。
私たち人間界は必ず道理や筋道という順番という黄金ルールが存在します。

まず自然をお手本にし、人間が学ぶことは決して変えてはいけない普遍のルールであったはずです。ここまで来てしまったのは仕方がないのだから、揺り戻しの中で何を最先端とするかはっきりしていきたいと思います。

新しい一歩

生きいればやり直しというのは必ず発生する。

それは過去の自分との向き合いが必要であり、丸ごとの自分を偽らずに認めることができるかどうかというものもある。いくら周りの期待に応えようとして必死に自分を偽ったとしてもそ、いつかはその評価は変わってしまうものです。

同じく自分自身の生長にあわせて今までの関係や今までのものを再度、やり直すということが必要であろうとも思います。そのやり直すとは、偽らずにやり直すことが必要にも思います。

人は誰しも、気づかなかったことで間違いが起きることがあります。それに知らなかったことはそれを未然に防ぐこともできず、すべては体験するために必要な期間であったのだと思います。

特に生き方や価値観などというものは、刷り込みが深くそう簡単には気づき変えるということは難しいのです。過去に囚われたり、何かに執着があったり、間違った価値観に凝り固まれば何も見えないのと同じなのです。

しかし体験していくうちに、自分が間違ってしまったことなどにも気づくのだと思います。

その時こそ人は間違いを正すチャンスを得るのです。そしてそれはじっくり納得いくまで体験してからともいえます。その体験こそが、次への挑戦、飛躍のチャンスであろうとも思います。

一般的に人は体験を失敗にしたくないから偽ろうとするものです、もしくは偽っていたから失敗したともいえます。しかしそのままであれば本当の失敗になってしまいます。

失敗とは学びでありそこから気づくものだと定義するならば体験したらならそれに気づき受け容れ清算し新しい一歩を踏み出していくことこそが真の学び方であろうとも私は思います。

新しいスタートには新しい一歩であるのです。
そして過去の体験は、未来の体験で取り戻せるのです。
それが生きるということであろうとも私は思います。

常に清算しながら学びを復習し、それを希望の糧にして歩んでいこうと思います。