何かを支配するという考え方というものは、そもそもどこにでも存在する。
それが戦争から金融や石油に代わるだけで、支配するという考えはなくならない。
そもそも自分のものではないものを自分のものにしたいという考え方は、共生していこうという考え方から外れている。お借りしているや、来ていただいている、御蔭様などという気持ちで接するのはそもそも共に生きる方を優先したからでもある。
欧米では個人主義を基盤に、様々なルールを設けてそもそもバラバラであるものを繋げようとする。一見、個人の自由は尊重されているようだけれどそのためには集団のルールに従ってもらうといった暗黙的な約束事がある。
私たちアジアでは、そもそも皆で仲良く調和していくことや、周りと一緒にというもともと一つであるということから繫がりを大切にしてきた民族である。一見、集団を優先し個人の自由がないようにみえても実はその中で道徳規範に従ってそれぞれに個人が律して皆の自由を尊重している。
この繋がりや絆というものは、そもそも個がバラバラからスタートしているのと、個が一つからスタートしているのではまったくその定義も異なってくる。
繫がりや絆というものは、共生していく中で出てくる言葉であり、それぞれが自生していると勘違いしている中で芽生えるものではない。
一つの大地に、たくさんの生き物がいることを知ればそれはすぐに分かることなのです。
私たちは、子ども達に教えるのはルールなのでしょうか、それとも繋がりや絆なのでしょうか。
支配するためのものか、共生するためのものか。
本来の在り方を学び、人としての道を学ぶことはいのちの廻りを絶やさないことなのです。
色々と起きる毎日ですが、自分の使命は次第にはっきりしてきます。
有難うございました。