奇跡の歩み

33歳のとき、九州西国三十三ヵ所巡りを行った。
私の名前の由来が、第一番札所霊泉寺に由来があり発心したものです。

そしてその旅の道すがら場所場所に、種田山頭火の句が同行していました。

各地の寺院にはかつて同じく巡業したその山頭火の句集の一部を紹介していて、夏の真っ盛りの歩みの日々に穏やかで確かな歩みの気持ちを感じたものです。

静かな山林を抜けながら、心を澄ませて聴いていると風の音や水の音、葉の揺らぎや光のシャワー、夕暮れになれば蜩の鳴く声の間の静寂に様々なものが響いてきます。

「 いちにち われとわが足音を 聴きつゝ歩む 」 種田山頭火
私もこの瞬間も奇跡を味わいながら毎日毎日、一歩一歩と歩んでいく音に何が起きているのか、どこに向かっているのか、何をしたいのか、天に聴く日々。
その日々は、とても充実したものです。
頭で考えていなくても、心はすべてを見透かしているように思います。
その一つ一つの意味を感じるとき、自分がなぜ今、このような出会いに生きているのか、そしてなぜこのように生きようとするのか、その足跡を時折振り返り、踏みしめる足音に耳を傾けてみるのです。
時間というものは、有限でいつかは今のようにはしていられなくなります。
その中で、目的や目標を達するために没頭するのも大切なことなのでしょうが時より一休みし、この充実する今を味わうことも今を生きている自分を深く受け容れることに繋がっているように私は思うのです。
自然は音のない音を奏でてくれます。
そして、心は音のない音で響かせてくれています。
「われ今も、この奇跡の音、感じつつ」 藍杜静海
いつまでも自然の一部であることを忘れないで生き切っていきます。