土を掘ると何層にも堆積した歴史が土中から感じることができる。
何年もかけて降り積もってきたものが、積み重なり今がある。
ある時代は、乾季が続き、ある時代は雨季が続く、様々な気候変動にあわせて少しずつ私たちも順応しながら循環の中で共に生きてきたともいえます。
一見、何も変わっていないような一年に見えても自然は雄大な時間の流れの中でずっと大きな変化の真っただ中にあると感じるのです。それを土中の歴史に感じるのです。
そこの屍の層をよく観察すれば、長い年月で順応した我々と、また共に生きてきた動植物や菌類までみんなこの地球に生息する者同士、一様に繋がりの中で助け合いながら変化とともに今を紡いできたのだと思います。
だから自然には無駄がないのだと思います。
そして変化が大きいことを知っているからこそ、皆が共に生きることを選んだともいえ、それは自分だけでは生きられないことを自然にいるものはすべて心で自覚していたのだと思います。
人間はあまりにも大きな変化に気付けなくなったのは、文明の些細な変化といえども目先しか見ないような生活になってきているからだとも感じます。日々を忙しくし、日々の情報に一喜一憂していれば次第に雄大な変化のことなどまったく見えなくなっていきます。
そしてまた目先の順応にあわせるために科学力を使い、便利さを追い、また弱体化していくのです。本来の自然は、雄大な変化だからこそ私たち生き物も毎年少しずつ雄大になっていけるように進化してきたともいえます。
進化とは、変化することで、そして退化することでもなく、やはり順応なのです。
目先の変化のために今では即席栽培できるように種をいじり、遺伝子を操作し、環境を管理しやっていますがはたしてそれは順応とはいえるものでしょうか?
これからますます自然の雄大な変化の中で私たちがやっていることは、子ども達の弱体化ではないかと、そう思うのです。
子ども達の生きる力を引き出すのは、まさに私たち先進国といわれる文明社会の人間の正対すべき課題であると私は思います。貧富の差も、食糧危機も、何もかも、身近な足元から危機は迫ってくるものです。
常に、脚下照顧し日々の小さな気付きを大切に過ごしていこうと思います。