歩み寄り

先日、赤ちゃん学会を訪問して話をお伺いすることがあった。そもそも赤ちゃんという存在がどのような能力があるのかはまだあまり解明されておらず、本来の関わり方やあり方などが最新の研究で明らかになってきている。

音を感じる力や言葉の認識力、人間関係の構築など一見、何もできない存在にみえてすごいことをやっているのにはとても驚くことばかりなのです。

人間はどうしても小さいものや動かないもの、言葉をしゃべらないものなどは何もできない存在だと思い込むことが多いのです。しかし、実際は動かないものや新しいもの、言葉にしないものこそが大変は実力を兼ね備えているものも多いのです。文明が進み、知識が豊富になればなるほどに目新しいものに意識が運ばれますがもう一度見直すにはとても善いことだろうと思います。

その会話の中で、軽度発達しょうがいの子どもがあまり健常児の子ども達の気持ちを理解しないなどの誤解について話がありました。もともと偏りが強い子どもは不思議な力を持っています。犬と話ができるや、何か景色を見ては描けるや何かを感じる力が突出していたりします。

もちろん人はそれぞれにみんな異なる力を持っているのだから同じというのはあり得ないのですが、それが偏ると余計に分からなくなるものです。そう考えると、健常児の気持ちが分からない子どもというよりも、では軽度発達しょうがいの子どもの気持ちはあなたたちに分かるのかとなるとお互いが分からないということになるはずです。

一般的には、立場が違う人が皆に理解されなかったり、大多数の平均理解と偏った考えで分かれたりと、それぞれに認識は異なるものです。

だからこそ大事なのは、お互いの歩みよりであろうとも感じます。
特に、大人は自分一人が認識されないことを過度に嫌がる傾向があります。
それは人間が社会を主軸に生きる動物だからであろうとも思います。

だからこそ論語にもこうあります。

「子曰わく、人の己を知らざることを患(うれ)えず、人を知らざることを患う。」

そう考えると、子どもが空気が読めないや認識しないや偏っていることを心配しそれの対策を立てることよりも自分がその子どもの気持ちがわかるのだろうかということの方が大切ではないかということなのです。

どうしても自分のことを分かってもらおうとすればするほどに、誤解は大きくなるのだと思います。だからこそ、そうではなく自分から如何に相手の気持ちを理解しようとした方がいいのです。

特に今のような時代は、そのお互いの歩み寄りをはぐくむためのマネージメントを必要としている気がします。

まだまだ社業で実践していきたいと思います。