自分に正直

先日、幼児期の子どもたちが心の表現が複雑な様子を見て深く感じ入ることありました。

子どもは言葉をあまり持たないけれど、心をそのままにさらけ出すことができています。それが多少はありますが大人になると様々なことをコントロールすることを覚えて、言葉を使ったり、表情を使ったり、周囲の空気を読みつつも場面場面で使い分けたりすることを教えられていきそれができるようになります。

そうやって我慢を身に着けることで、感情を避けてどうにかしなければと思うようになったり、無理をしてしまい素直になれなくなったり、何かの出来事を理屈で処理をしいつまでも消化できず辛い思いをしている人たちもたくさんいます。

思ったことを思った通りに表現するというのは、自分の感情と心を偽らないことでもあります。
心で思ったことと感情が一体になっていれば、いつも自分に正直にいられるからです。

もともとこの感情と心の間には、言葉というものがあります。

人間は、何か物事を考えるときすべてに言葉にします。このブログもそうですが、周囲にわかるようにと言語化したのですがそのことで自分のことが分からなくなったとも言えるのです。

もともと人間そのものを理解したり、いのちそのものの本体を理解するには、渾然一体となっている言語化される前の自然を感じることができなければ不可能です。

物事や一つのことを分けて考えるということで、分析する力や科学する力は身に着いたかもしれません。社会を構成するには、そういう力が必要だったのかもしれません。しかしそのことだけにあまりにも偏り、心や感情の世界と分離してしまえば、それ以前にあったカタチのないものや、繋がっている天地自然の道理などから離れてバランスを崩してしまっているともいえるのです。

しかし、時代が変わってももともとの生まれたての子ども達をみていたら、赤ちゃんも幼児もまだ感情と心が分かれてしまうまえの姿を実感することができます。泣いたり笑ったり、怒ったりいじけたり、それだけではなく、許したり、愛したり、感謝したり、謝ったりと自然にできている姿に感動しつつ学ぶところばかりです。

心と感情があるのだから割り切れないことばかりなのがこの世の中なのです。

自然に感情がだせて、自然に心がオープンになっているというのは、自分に正直でいるということでもあるのです。数々の自分に引っかかっている言葉の壁、刷り込みの壁を取り除き、子ども達のように複雑に割り切れないものをそのままに自分に正直に過ごしていけるような充実した日々を謳歌していきたいと感じました。

子どもたちが安心してもともとの姿でいられるように、見守るの実践を広げていこうと思います。

ソーシャルビジネス

昨年、バグラディッシュでグラミン銀行を設立して世界の貧困撲滅の実践を行うムハマド・ユヌス氏の講演を拝聴した。

二宮尊徳を学び実践する中で、今の時代にも同じ観点でビジネスに取り組む人がいるのだと理想と憧れとともに話を伺った記憶が今でも鮮明に残っている。

もともとこのユヌス氏の思想である「現在の資本主義が、人間について利益の最大化のみを目指す一次元的な存在であると見なしているとする。これに対して人間は多元的な存在であり、ビジネスは利益の最大化のみを目的とするわけではない」とある部分に私はとても共感している。

そもそもビジネスという意味の定義が今の時代は資本主義の中だけで、株主を中心にした会社としてのみ捉えられ本質としてのビジネスの在り方を問い直されてはいないままになっている。わが国では、渋沢栄一や二宮尊徳、近江商人など、もともと三方よしの考え方を根底に持ってビジネスというものを定義している。

かつて存在したビジネスは道徳の経済の一致や、売って喜び買って喜びみんな喜ぶという、そもそも何のために商売をするのか、経済をするのか、道徳があるのかという根本から捉えているからビジネスという元々の意味はその資本主義で定義されている今の時代のビジネスとは一線を画すのです。

先日の講演の中でも、東北の大震災の復興でユヌス氏が提案したのが「生活保護で補助し援助するのではなく、文化事業などを掘り起こししっかりとした持続可能な会社をたくさんつくり世界へと発信することだ」とありましたが私もとても納得できました。必要なのは、一方的な援助ではなく、共に生きていくための持続可能なビジネスにしていくことだと私も思います。

補助金の業界で一度でも仕事をすれば、すぐに何が間違っているのかは気づけるからです。
最初は補助が必要でも、すぐに自力で自立できるようにしないと時間が経ち当初の目的を忘れて次第に持続しない社会へとそれらを運んでしまうからです。

生きる支援というのは、自立支援というのは、生きていくための方法や、生きている意味や価値を感じられるソーシャルビジネスを共に行うことで成り立つのです。震災後、一年経って見て、現実に起きている問題を直視すれば国家の支援の官僚的な采配が如何に矛盾しているかを改めて実感します。

そもそもソーシャルビジネス、社会起業といったものは、新しい物ではなくそれが本来のビジネスの在り方そのものであったのです。昔からビジネスというものは、社会をより善くしていくために持続可能なやり方で取り組むということからお金という手段を使い成り立たせてきたのです。

今は職業が分断化され、福祉の会社、奉仕の会社、経済の会社などと分けていますがその分け方自体がおかしなことなのです。それを勝手にわけたのは、分類上、上から都合で分けただけで現場では分かれてなくただソーシャルビジネスというだけであるのです。

社会に自分を役立てたいと人はまず志を立てます、そしてその志を貫くための手段を考えます、そしてそれを持続可能にするためにあらゆる技術を使って具現化していきます。カタチにするには、ソーシャルビジネスとして理想を実現するための至高の経営技術が求められるのです、それは決してチャリティやボランティアと同じように語れないのです、今の仕事のむずかしさからこれを実現するには真の実力が必要だということを感じない日はありません。

本来、いろいろな会社があっていいとは思いますが私が目指している経済と道徳の一致の理想の会社は教育界や保育界には必ず求められる社会企業でなくてはならないと思います。何をもって持続可能とするか、子ども達のいる現場なのだから大きく捉えて自然であるということにこだわることなのです。

世界では同じようなことに目覚めている人たちはたくさんいます、そして結果をちゃんと出しているのです。目を開いて、人が棲まう社会全体の中で自らを正しく理解し、この道中を楽しんでいこうと思います。

真の豊かさ

今の時代は、何かを自分で作ろうとするよりも購入した方が早いという。
それにまだまだ捨てずに使おうとするよりも新たに購入した方が早いともいう。

これは物が増えてすぐに手に入るということを意味していて物がない時代ではなくどこからでも自分の欲しいものが簡単に購入できるようになっているという証でもある。

かなりの田舎でなければホームセンターがあったり、大型スーパーマーケットがあったり、ドラッグストアがあったりと、車で少し走ればどんなものでもほとんどが手に入れることができます。

一般的に生活の中で必要なものはほとんど用意されていることを意味します。
そこで必要なのは、お金ということになります。

ここ最近、なかなか手に入らないようなものを探していて気づいたことがあります。

例えば、昔の農機具だったり、原種の種や虫、品種改良されていない烏骨鶏の雛、土壌発酵用の菌などもそうですがインターネットをフルに活用して、探し出せばまだまだ取り扱っているところもたくさんあります。それに何かを自分で作ろうとしたり、何かを自分で育てようとしてもまったく未知の世界であるからそれを教えてくださる智慧もまだまだ残っています。

しかしそれでも手に入らないのは、地元の農家の方々や知人、友人に訪ねて探し求めていくのです。先日も原種の気候にあった大豆の種も、探していたら地元の方にいただけることになりました。

そう考えると、昔は人づてに探していたのでしょうし、次第にそれが物々交換を生んでいたのではないかとも思えます。

私たちが今、豊かと呼ぶものは実はあまり物がないところにあるのかもしれません。
私たちが豊かだと定義するものは、昔は物がないからこそあったのです。
しかし今の時代は、物が存分に溢れています。

だからといってかつての物がない時代の豊かさとは、私たちの今のような裕福な生活が豊かさの象徴だったのでしょう。

我々の今は真の豊かさについて考え直さなければなりません。

それは物があろうがなかろうが、人との絆、繋がり、そして共感や思いやり、手間暇や人づて、助け合い、守り合い、分け合いしていくこと、そういうことをもう一度学び直して、物があろうがなかろうがそういうものを正しく維持継承していくことが子どもの未来に直結していくことだとも思います。

真の豊かさは常に生き方そのものに顕われてくるのです。
真に豊かになりたいのならば、その生き方を変える事です。

具体的に生き方を行動にしていくことは小さなことでも、豊かさは大きく膨らんでいくのです。
せっかく大変なのだから、むしろ真底から生きる豊かさを味わっていきたいと思います。

心の成長

昨日は、もうずいぶんと長くお付き合いをしている幼稚園の卒園式に参加した。
色々と感慨深いものもあり、ご縁の不思議さに改めて感謝の念が込み上がってきます。

出会いと別れというのは、様々な感情と複雑に絡みついています。

卒園式の子ども達の様子を見ていても、笑顔を終始絶やさない子、涙を必死にこらえている子、わざとおちゃらけている子、黙って固まっている子、友達と喋りまくっている子、ずっと泣いている子など、それぞれに表現の仕方が異なるのに不思議と安心するとともに共感するものがありました。

この出逢いと別れというものは、決して同じ心であっても皆が同じ表情ではないのです。

人の心はとても複雑です。

ある人は、泣きながら笑い、またある人は怒りながら泣く、笑いながら哀しみ、そういう表情が和合して乗り越えて中り、新しい心に生まれ変わるのです。

人は節目があるから生長しますし、節目を大切にしていくから自分の心が育っていくのです。

どうにもならない感情は、とても複雑なものです。

いくら感情を隠していても、心の中に起きていることは隠すことはできません。私たち大人も子どもたちを見習ってもっと素直に、もっと純粋に、もっと豊かに、心身一体になって健やかに成長していく必要を改めて実感しました。

最後に、この出会いと別れには何より大切な学びがあることを知りました。

それは本質的な「心の成長」。

これからも、子ども達に負けないよう真心を育てながら一生を楽しく学んでいこうと思います。

夢とは何か

昨日、小学校の卒業式に参加しました。

何より教育を通じてそこで学んだこと、そこで出逢ったこと、友達、先生、関係者、そして教室も運動場も、体育館も廊下もトイレも、また校歌や朗読、等々まで子ども達もそこで確かな生きる意味を共に生を育んでくれたことに感謝の気持ちがこみ上げてきます。

節目にそういう機会に触れることができて有難い体験になりました。

校長先生からは夢を持ちなさい、夢なきものに目標なし・・などの話があり、子どもたちが夢を画用紙に書いて提出していたのを壇上でひとつひとつ感想を述べていました。

昔と比べて、そうやって子ども一人一人の夢を卒業証書を手渡すときに感想を伝えるという風に変わったのかと前より丁寧になった部分も視て考えることにもなりました。理由もいろいろとあるのでしょうが、少子化で可能になったこともあるのだと思います。

その話の中で、夢を持つことについて私は自分の人生体験で気づいたことがあります。

子ども達の夢を聴いていたら何かの職業になることのように語れます、それはサッカー選手や野球選手、デザイナーであったりとか職業を言いますがそれは夢ではなく手段の一つであるのです。

子ども達をじっと見ていたら、何をやりたがっているかを感じればそこに確かな夢があることに気づきます。だから私は夢なきものに目標なしの言葉にはどうしても共感できず、夢はもともとすべての人に必ず備わっているから出会えればいいと思うのです。

私の場合は子どもの頃から夢を持とうとしてずっと何十年も持てずに苦しんだからこそ、夢はもともと持つものではなかったこと、夢はもともとあったことにこの歳になってはじめて気づくことができたのです。

それはまるで人が無意識にでも呼吸をするように、心臓を動かすように、その他、数々の生理現象と同じようなものが夢であり、止めようとしてもそれは自分の力では止められないのです。

私にとっての夢とはそのようなものだと思っています。

子ども達にも、「夢はもともと持っているのだからいつか必ず出会うよ、気づければね。」と話をしています。

別に焦る必要もなく、急ぐ必要もなく、自分を信じてやりたいことをやって夢のプロセスである日々の新しい出会いを最幸に楽しめばいいのだと思います。

子ども達とは夢と希望です。

今の社会をよりよくして、これから先の子ども達のためにも道筋を創っておきたいと思います。

 

気持ちの持ち様

昔から「あなたはやればできる」という言葉がある。

よく色々な人たちから、あなたはやればできる人だからと言われている人は多いと思う。
身近でもやればできるのにと残念がられる人たちもたくさんいるし、自分の中でもやればできるはずだと言い聞かせて頑張っている人たちもたくさんいる。

このやればできるという言葉の本質は何であろうか考えてみた。

そもそも人はできるかできないかの境界線はどこかといえば、その人のやる気の問題になる。
やればできるという言葉は、その言葉の前に必ず「やる気になれば」というものが隠れている。

それに気づかずに、なぜか自分はできるはずなのにできないと悩んでいても解決はしないのです。この「気」というものは、目には見えないもので気は「纏う(まとう)」とも表現されるように、一般的にはオーラとかエネルギーとか言えるものです。出来る人と言われる人は、できるかできないかのところで悩むよりも、自分が纏う気、オーラやエネルギーというものを大切にしているのです。

もともと「やる気」というものは、意欲ともいい、それをやろうと決めることでそれを持続させることをやる気があると言えると思います。このやる気というのは、まずやろうと決める事、そしてやろうとしたことを継続すること、やり遂げるまで諦めないことという3つのことができていることをいいます。

つまり、やる気とは、この3つを行えることをいうのです。やる気を引き出すというのは、この3つのことをできるようにすればいいのです。よく勘違いしていつもやればできるはずなのにできないと嘆く人は、この3つ気のコントロールのどこかに躓いているのです。

自分のやる気をどう引き出すかは、人それぞれに異なります。それを学ぶことをまずどうやったらできるかばかりを悩む前に自分の本当の気持ちがどうか、またその持ち様をいつもメンテナンスしておくことだと思います。

人は何でもまずは「やる気」の問題だということが、やればできるの本質であろうと思います。
「やる気満々!!」そういう人の周りには次第に楽しく元気な雰囲気ができていきます。

まずはやる気を育てていくために、自分のやる「気」や本「気」といった『「気」持ちの持ち様』を大切にしていきたいと思います。

他問他問の罠

人は誰かと対話をするとき、話をする人、話を聴く人というどちらかになる。
そして出会いというものは、その一瞬の邂逅で最適な質問ができるかどうかによる。

私の場合も、この人に会いたいと思ってからすぐに出会える場合と、すぐに出会えない場合がある。それはタイミングがあり、今ではないと思うときには会いたくても会えないと思っているから難しい。

この今ではないというのは、質問できる状態ではないということに近いものがある。
会いたいと思えば思うほどに、自問自答し、何を質問するかを真剣に考える。

それは師との面談でもそうだし、自然との対話でもそう、自分というものの対話でもちゃんと準備をして話ができる土俵に上がっているかどうかを吟味するから慎重になるのです。

大切な人に大切なことを教わる時、それは「永い時間温めた」という言い方をします。

企画書でも、永い時間温めたものや、言葉も自分が永い時間かけて温めたかというのが一瞬や一言で言い表せるのです。だから、実力がある人への質問や一般的には経営者への質問というのは自分が思いついたことを話してはいけないのです。

思い付きやその場での対応というものは、決して自問したものではありません。
上司の出し直しなさいは、考え直して出しなさいという意味で、これは自問してきなさいです。

言われたから反応しただけだったり、それは相手発信だからあわせただけで動作的なものが多いのです。例えば、「それを取ってくれる?であったり、あれをこっちに持ってきてくれる」というだけであるのです。しかし、もしも準備して臨んでいれば、相手から何かを言われる前に「これですねや、それはもう済んでいます」というように心地よく相手に対話をあわせていくことができます。

つまりコミュニケーションとは何かといえば、 相手のことを先に配慮し自分から寄り添い相手の問題を自分が解決することになっているかということでもあるのです。特に、仕事に情熱を傾けられる人は相手の問題を自分の問題以上に真摯に取り組むから一心不乱に取り組めるのです。だからそうしているうちに、仕事が上達するのです。

働き方として、そういう風に生きている人たちは成功します。自分の問題もやっていますがそれ以上に他人の問題解決に余念がないからです、協力する姿勢、お役に立とうとする姿勢が生き方としてできているのでその人は周りにいつも必要とされまた上達する好循環にのるのです。

そしてそれを具体的に実現するには、まず質問する力があるかどうかによります。
これは私の言葉の定義では、ちゃんと事前に自問してきたかということなのです。

言われたことをやるのは自問ではなく、他問ですし、自答ではなく、他答です。
他問他答していたら、一向に質問する力も、そして正しく答えを導ける力もつきません。

仕事で楽をおぼえてしまうのというのは、この他問他問の怠慢の罠に嵌っていますよとも言えるのです。だから私はそれを「わかった気になってはならない」と、その都度、その場で繰り返し自戒して、その自分で考えず答えに縋るような罠に嵌らないようにと習慣づけを行っているのです。

人と協力して何かを行うというのは、この力は何よりも鍵を握るのです。
そしてそれがビジネスでは何よりも大切な仕事の技術になるのだと私は思います。

いくら見栄えのよい企画書があってもダメですし、いくら話が上手な人でもそれではダメです、本質は質問してきたかということに尽きるのです。

自問自答を続けることは、学ぶことだと思います。
大切にしていきたいと思います。

癖というものがある、この癖は意外と重要視されていないけれどその人の人生において大きく影響を与えるものである。

「なくて七癖」という諺にもある通り、癖がないと見える人でもよく見たら七つくらいは癖があるものであるという意味になる。

辞書でこの癖の意味を調べてみると、 1 かたよった嗜好または習慣。 2 いつもそうであること。ならい。ならわし。 3 欠点。非難すべきこと。 4 ある状態になって、もとに戻しにくくなること。5 そういう傾向になること。「怠け癖がつく」 (広辞苑)とある。

何かをやろうとするときどうしても邪魔をし、障害になるのは今まで身についた自分の癖であることが多いのです。以前、どのような生き方をしてきたか、過ごし方をしてきたかを思えば、長い時間をかけて間違ったことをしていたり、長い期間をかけて楽なやり方を身に着けたりして一度、その方法を自分の方法だと身に着くとそれをもとに戻すのが難しくなるのです。

例えば、食生活でも同じく食べたいものばかりを食べて偏食していた人が粗食に戻そうとしてもつい何度も外食を繰り返してしまい元の生活には戻れません。仕事でも同じく、一度自分の楽な方法を覚えてしまったら元のカタチに戻すことができません、例えば営業でも一度楽をして結果を出せる方法が身に着いたら、地道に丁寧に積み上げていくような営業のやり方に戻すというのはなかなかできないのです。

つまりは人間は習慣の生き物であるのです。

善い習慣も悪しき習慣も、その人の過ごし方などに出てくるのです。
そしてそれは無意識に行われるから自分の癖に気づけないということになるのです。

人は生き方を変えると決心するとき、まずその癖を見切り、その癖から修正していく必要があります。知らないうちについた癖であれば、まず自分の癖が分かりません。それにその癖を修正するには新しい癖をつけ直すしかないのです。

セルフマネージメントをするにも、コーチングが必要になります。
特に、誰にも言ってもらえないくらい偏屈に頑固になったらもう癖の塊になります。

言われた時にすぐに改善できるかというのは長い時間で大きな差になるはずです。
自らの癖に気づき、自ら癖を指摘していただき、自ら新しい癖をつけていくこと。

学問を通して、さらなる技術を学んでいこうと思います。

五感と応用力

見るものと読むものの違いについて考えるきっかけがあった。

もともと見るものというのは、見ようとしなくても見せようとしてくれるものがあればこちらが主体的でなくても見ることができる。テレビなども同じで、相手がこちらに見やすいようにしてくれるので何時間でも眺めていたり受動的にそれを行うことが楽にできる。

しかし読みものというものは、一般的には読もうとしなければ読めずこちらの読もうとする主体的な行為が必要で読むと決めたり、読みたいと思って能動的に行うことが重要になる。

これは見ると読むを簡単に分けてみたけれど、実際はどの行為も能動的か受動的かというもので物事の質量は異なってくるのです。そしてそのキッカケを与えるものとして、見せるものと読むもの、聞かせるもの、嗅がせる、触らせるものという感覚というものがあるのです。

テレビでいえば、衝撃的な音楽やナレーション、映像を使いますし、読み物でも漫画などは表紙や最初のストーリーでキッカケを与えたりしますし、音楽もイントロやサビの音律で聴かせてきます。

これを五感を刺激するとも言います。

如何に人は五感を刺激され、そのものへ関心を持ち能動的に参加させるかというのは様々な技術が必要になります。プレゼンテーションでも、最初になぜそれを話すのかを五感を刺激するように伝える人の話はつい聞き入ってしまいます。

以前、秋葉原の街中でテレビショッピングのように実演販売しているものを見ていたらつい欲しくなってしまうのも五感に訴えてくるものがあるからです。

五感に訴えていくということは自分が五感で感じ取っているからできることでもあります、それはひとつひとつの体験を自分が持っていることであり、それに共感し、その五感で訴求していく力があるからともいえます。

デザインやクリエイトする力、他人を説得する力、感動させる力は、この五感を磨いているかによるのだとも思います。

小さなことであっても、なんでもないようなものであっても、そこから深く掴み取る感性や、心眼で受け取ることができる観察眼など、どれも大切な仕事のセンスです。

当たり前のことですが、この当たり前にこそ大切な気づきがあるのだと思います。
ひとつひとつの仕事を丁寧に、気づいたことをすぐに今にも応用させていこうと思います。

五感をフル活用して、様々な場所で応用力を発揮していこうと思います。

自他の癖

人は生来身に着けてきた癖というものを持っています。

一般的には仕草や行動パターンなどにも出てくるものですが、正確にはその人の今までの「生き方」が関係しているともいえます。過去に何かの癖がついてしまったものが、いつまでも抜けないというのは多々あります。朝寝坊もそうだし、遅刻もそう、飲み過ぎもそうだし、小さなことを観ていたら人はみんな癖があります。

自分がすべて問題の原因だと自覚できる人は、この刷り込みに気づきやすい環境が用意されています。自分はなぜか一生懸命に取り組んでいるのに、上手くいかないのだろうかと何度も挑戦しては失敗しているからそれを正しく受け容れる土壌があるのです。

癖と向き合うときは、それが原因だと気づいてその元を正すため自分がまだまだ本来の道理から外れているのではないかと覚醒し、それを行動とセットで本気で直すことができて可能となるのです。ここで間違うと気づいたら、そこをやめるために行動を正すという具合です。

この道理というものは、例えば親子の道理であれば親は子の幸せを望み、子は親の幸せを望むというものが道理なので、親が子どもを自分の思い通りに利用したり、子どもも親の文句をいって都合よくしようとしていたら道理から外れるのでその間は何をやっても失敗します。だからこそ、親子で尊敬・尊重しあい、いつも互いに恥ずかしくない生き方をするようにつとめていくしかないのです。

仕事の道理でいえば、三方よしというように売って喜び、買って喜び、みんなが喜ぶというようにしていくことが道理なので、もしも会社だけが喜んだり、お客様だけが喜んだりするのではなく関わる人たち、社会全体も喜ぶように全てが幸せになるように正しく勤めていなければやっぱり無理がきて失敗するのです。だからこそ、理念を尊敬・尊重し合い、いつも正しい判断ができるように恥ずかしくないような生き方に仕事につとめていくしかないのです。

特にこの道理というものを見失うのは、どこか過去の体験した刷り込みが影響します。
しかしこれも根治改善すれば、在る時を境にきっぱりと断ち切ることができるのです。

それは生き方を変えるために細部の癖を直し、細部の癖を直すことで生き方を変えるという具合に常に行動と考え方を正していけば、心も次第に変わっていくのです。

気づかないうちに得た癖は、自分から気づいて変えるしかありません。
お酒やタバコといったようなものも、同じプロセスでやめることができるのだと思います。
意志と勇気が要りますが、大切なものを守るために人はみんな取り組むのです。

難しいことですが、経営者やリーダーはそのことに対して厳しい決断を迫られるのです。
他人の癖と自分の癖の相性が間違いを続けさせますから常に見つめていこうと思います。