ここ数日、自然養鶏を行うための鶏小屋を建築している。
結構、大掛かりな準備が必要で発酵床の土壌を山へ取りに行き平飼ができるように配置を構成し、また空気不足にならないようにと風の通りに配慮しつつ、出来る限り鶏にもともとあった環境を用意しようと試行錯誤しながら準備しています。
何でもそうだけれど、新しいものを設計し、新しいものに取り組んでいると、最初の思っていた通りのようには進まず、資材から部品、その他の既存の制約の中でどこまで当初の設計図通りにできるかというのは大変難儀なものです。
鶏小屋一つをとっても、知識が足りず何度もビスを打ち間違えたり、作りながら改善するところや、やってみると工夫して追加したいところなども増えてきてなかなか前に進みません。
それに天候の影響も受け、ここ数日は雪や雨ばかりでそのことにも対応が必要です。
短い期間に創りあげてしまおうと思えば、かなりの綿密な設計と調査が必要です。
しかし実際は、この期間に仕上げなければ色々な諸事情で間に合わず短期間で進めていかなければならないのです。
本来、自然養鶏や自然農と言われる人道的なものは基本的には会得している生き方としてゆっくり、スローにといった、「急がばまわれ、案ずるより産むがやすし、 悠々自適、泰然自若、積小為大」といった自然体での姿が何よりも大切だと学ばせてくるのです。
若さや性格の上でせっかちであることは、この自然体をいつも遠ざけてしまいます。
せっかちをしないということは急がないことや焦らないことではなく、「最期や細部まで丹誠を籠めて手間ひまをかける」ことをいうのです。
この教訓にもなる自然体は実際はどのことにも言えることで、急げば事を仕損じるのです。
何かを行う際は、ゆったりとして平常心で取り組むことが何よりも大切なのだと感じます。そしてこの自然体でありながら、なおかつ時代の流行にあわせ変化対応する技術を備えていることがバランス感覚なのであろうとも感じます。
一見、矛盾しているようですが真の自然体とは平常心で期限通りに変に達するというような心力と能力の両輪の調和を持ち合わせていることが大切なのです。
鶏小屋ひとつからも学べることは偉大に存在するのです。
いつも自然体に、心の命じるままにかんながらの道を歩んでいこうと思います。