農や豊かということについてここ数日の間に大きな気づきがあった。
そもそもこの字の上に配置されている曲がるという字、これは直というものとあわせて理解すると掴みやすいものになる。
自由や宇宙といった、由という字に、縦にもう一本入っているものが曲である。
それに豊かという字は、曲と豆の重なったものでできている。
今年は大豆で学び直すので、そのものの価値に何か古き懐かしいものを感じています。
天候でも環境でも、期限でも、作業でも、どんなことも思い通りにはいかないものです。
それは人間だけではなく、自然の中で生きているからでもあります。
自然の中で思い通りにいかないことは当たり前です、しかしそれを心から楽しめる境地でいられるということはそのものと一体化している達観した人生であると私は思います。
自分の思い通りに無理にいかせようと無理をしても何でも思い通りになるような世の中で果たしてそれで本当に豊かになったと言えるのでしょうか、そしてそれが幸せでしょうか。より質のよくない苦しみが増えているだけで、苦楽を超えた豊かさまでは到達していないようにも思えます。
人生とは誰にとっても一度きりです。
だからこそ、そう覚ることで思い通りにいかないことで苦しむこともでき、思い通りにいかないことを豊かにすることもできるのではないかと私は思うのです。
つまり、紆余曲折してもそれで善いのだ、そういう生き方そのものが豊かなのだと感じるのです。
もちろん難しいことですが、何度も何度も思い通りにいかないときにそこに立ち返り、思い通りにはいかないものだなぁと味わうことこそ、実にその妙味を体得した人生の真の歓び方ではないでしょうか。
スローやゆっくりという言葉よりも、私は人道とはそういうどうにもならないことを受け容れる力、思い通りにいかないことを楽しむ力、苦しいと思うことを味わう力、そういうものこそが今、取り組んでいる「農」の本質ではないかと気づくのです。
農という字は、この曲がるという字と辰という字でできています。
つまりは自然や天候などにあわせながら思い通りにいかないことを楽しむと読むのではないかと私は今、感じています。農的暮らしというのは、豊的暮らしのことで、それはすべてに思い通りにいかないことでも納得して生きている暮らしをする人のことを定義するのだと気づいたのです。
今の時代、人間のみに隔絶された人工的な社会の中での完璧な理想の人生を目指すのもいいのですが、本来はどんなことがあってもまるごとそれでいいと思えるような機会の多い人生こそが理想ではないでしょうか。
そこで人ははじめて智慧というものに出逢うのであろうとも思います。
人の歓びは、思い通りにいかないときに援けてくれる友人や仲間たち、苦しい時に一緒に傍にいてくれる家族や同志、そういうものをひとつひとつ噛み締めながら新たな境地に入れたことに深く感謝しています。
鶏小屋も皆様の御協力の御蔭で無事に完成し、鶏もやってきてますます自然との絆、太陽との繫がりが深くなったと今、ここに感じます。
子ども達に還元する日を楽しみに、私なりの保育、いや「養育」というものを昇華していきたいと思います。