昨日、小学校の卒業式に参加しました。
何より教育を通じてそこで学んだこと、そこで出逢ったこと、友達、先生、関係者、そして教室も運動場も、体育館も廊下もトイレも、また校歌や朗読、等々まで子ども達もそこで確かな生きる意味を共に生を育んでくれたことに感謝の気持ちがこみ上げてきます。
節目にそういう機会に触れることができて有難い体験になりました。
校長先生からは夢を持ちなさい、夢なきものに目標なし・・などの話があり、子どもたちが夢を画用紙に書いて提出していたのを壇上でひとつひとつ感想を述べていました。
昔と比べて、そうやって子ども一人一人の夢を卒業証書を手渡すときに感想を伝えるという風に変わったのかと前より丁寧になった部分も視て考えることにもなりました。理由もいろいろとあるのでしょうが、少子化で可能になったこともあるのだと思います。
その話の中で、夢を持つことについて私は自分の人生体験で気づいたことがあります。
子ども達の夢を聴いていたら何かの職業になることのように語れます、それはサッカー選手や野球選手、デザイナーであったりとか職業を言いますがそれは夢ではなく手段の一つであるのです。
子ども達をじっと見ていたら、何をやりたがっているかを感じればそこに確かな夢があることに気づきます。だから私は夢なきものに目標なしの言葉にはどうしても共感できず、夢はもともとすべての人に必ず備わっているから出会えればいいと思うのです。
私の場合は子どもの頃から夢を持とうとしてずっと何十年も持てずに苦しんだからこそ、夢はもともと持つものではなかったこと、夢はもともとあったことにこの歳になってはじめて気づくことができたのです。
それはまるで人が無意識にでも呼吸をするように、心臓を動かすように、その他、数々の生理現象と同じようなものが夢であり、止めようとしてもそれは自分の力では止められないのです。
私にとっての夢とはそのようなものだと思っています。
子ども達にも、「夢はもともと持っているのだからいつか必ず出会うよ、気づければね。」と話をしています。
別に焦る必要もなく、急ぐ必要もなく、自分を信じてやりたいことをやって夢のプロセスである日々の新しい出会いを最幸に楽しめばいいのだと思います。
子ども達とは夢と希望です。
今の社会をよりよくして、これから先の子ども達のためにも道筋を創っておきたいと思います。