人には自分に与えられた天分というものがある。
すべての自然のいのちも、その天分を活かそうとするようにみんなそれぞれに生きている。自分の持ち味や、自分の魅力、それが誰かの役に立てることほどそのいのちにとって幸せなことはない。
もちろん、自然の中にいたら、草花は虫や鳥、おおなる循環の中で自分が何かの役に立っていることを実感するから自分の天分を最大限活かすというつまりは自分の生を存分に発揮することがお役に立つことなのだと直結することができています。
しかしこれがもし、お役に立てていないと思ったのならば辛いだけで自分なんてという風にみじめな気持になるものです。自然の中だと、それでも必ず役に立つと感じるのは太陽も風も月も水もみんなそれぞれに絶えることなく続いているから自然にそれを理解するのです。
人間だけの社会では、それが見えずどうしても一喜一憂しながら天分を捜し歩いています。
そのものが元々から備わっている天命や天分というものをどう活かせるかというのは、自分で探す場合は自分から自分には何が備わっていてその備わっているものが何の役に立つのかを素直な心で自覚している必要があります。
同時に、その天分をたくさんの人に分かってもらいそれを活かしてくださる周囲を自ら見出しそこに近づいていき有限のいのちの中で自分の天命を果たすことで幸福な生涯を送れたとも言えるのです。
そしてそれはその人を中心とした周囲にも同じくいえることで、自分の天分を活かそうとすれば他人の天分をよくみてそれを適材適所に活かし、もっとも活躍できる場所、重用できるところで信頼して存分に活用していかなければいけません。それは分とは分けているのだから自他の分を活かし合うというのは、そのまま即全体の幸福を意味するからです。
もしそこに、自分正しく認識せず自分に都合の良い人ばかりを集めようとするならばその人は決して自分の思い通りになることはないのです。自分が活かせる人を探すことと、自分を活かせる人を見出すことは、人生の善きパートナー探しをすることに近いのです。
天分やマッチングというものの本質は、御互いが活かし合えるかということではないでしょうか。自分というものを正しく理解し、その自分を正しく活かす、これほど難しいことはあるのでしょうか、それはとても澄んだ状態でのみできる境地ではないかとも思え、それこそが自然体であるのです。
どちらかにとって都合の良いものは活かし合っている尊敬しあっている関係ではありません。
これは何よりも人との関係の重要なことで、何のお役に立てるかを互いに探し当てる旅が人の幸せに辿り着く道であるように今は感じます。
私自身、反省するところもばかりですが過ぎた過去は過ぎた過去、より善いことでお返しできるよう、当下一念、今をひたすらに正していこうと思います。