技術の心得

昨日も研修は続き、春の新芽を摘み天然酵母づくりから味噌作り、天然発酵パンづくりなど様々な実習から学ぶことができました。

素材というものをどのように活かすか、そして料理するということの姿勢、生き方などを作りながらも様々な言葉を用いて伝えてくださっていたように思います。

印象深かった言葉の中に「料理人は素材を超えられない」「どれだけ素材のことを信じられるか」というものもありました。出来る限り、調味料は使わずに料理するという考え方には感銘を受けました。

何かの物事を活かすという考え方を基盤にすれば、その自分の姿勢を見直すものです。

人は常に自分の思い通りにいかそうと、自分の都合にあわせてもらおうとばかり考えて悩んでいることがほとんどです。もしくは、自分らしくいることや正直にいることをやめて誰かの意見に迎合し、依存してしまってストレスを抱え込んだりもしています。

本来、自分とは何かと思うとき如何に自分の感情を丸ごと含めて自分らしくいるかというのは本来の一番身近な人ともいえる自分のスタンスが出てているのです。

自分に対してどのように振る舞うか、自分を誤魔化すか、自分を大事にするか、自分に正直で居るか、自分を偽るか、自分に我慢するか、自分を尊敬するか、その自分との関係がそれが他人との関係に出てしまうのです。

人間関係を思うとき、どうしても相手に目線がいってしまい自分のことをおざなりにしてしまうことがありますが本当はどのような自分と向き合って受け容れてそれを活かすのかという考え方がいるのだと思います。

自然界には個性豊かな材料や才能がたくさん備わっているように思います。
そのどれもが、それぞれにしかない持ち味というものを持っています。

それをどのように活かすかは、その料理人の生き方が出てくるのです。
どんな技術であっても、やはりその理念が大事であることを改めて認識することもできました。

私も料理が大好きで料理はどれだけやっても飽きることはありません。
素材の味を引き出し、素材が自他に貢献しあえるように自分を活かそうと思います。

どんなことを観ても、いつも技術には「信」が入ることで新しい価値に転じます。
まだまだ技術を体得して深めていこうと思います。

発酵の本質

昨日から百姓屋敷わらに来て発酵技術についてのセミナーに参加している。

元々天然のはたらきというものがどのように存在しているのか、目には観えないけれど確かに存在する様々ないのちに意識を当てることで、如何にそのはたらきから智慧を授かることができるかが私自身の今年の学びの課題にもなっている。

先人たちが今まで学んで遺してきた智慧には、本当に今の時代に必要なものもある。
そういうものを継承し正しく活かすのも今を生きる私たちの使命ではないかと思います。

昨日は、麹や天然酵母を用いどぶろく作りから甘酒、ヨーグルトや発酵玄米などについてのレクチャーがありました。以前より菌の不思議さは感じていたけれど、それをどのように暮らしに活かすのかについてはまだまだ認識不足もありました。

セミナーを主催する船越先生の話では、まずは技術よりもその前に考え方、いかに「おいしく、楽しく、感謝して」というものがあり、そこに 発酵というものが繋がっていくということを話してくださっているように思いました。

私にも発酵というものを思うとき、「如何に生きものたちの力を引き出し協力するか」というものがあります。先日から取り組んでいる、自然養鶏もまた自然農も、その他の生活の中に取り込む菌のことも、生きているものたち、多様ないのちと共生することの喜びをずっと感じています。

発酵とは、私にとっては「みんなと一緒に協力しあう」ことに他なりません。

協力をしよう、御互いを引き出して貢献しあおうと取り扱う人の考え方や意識が如何に全体のマネージメントに対して影響を与えるのか、そこが大切なのです。

そうすることで、違うもの同士が組み合わさりまったく新しいものを発生させてしまうのです。

よく醸し出していくのも、発酵してブクブクシュワシュワ元気よく活性化していくのも、様々なアクをうまみに転換していけるのも、そこに発酵技術、つまりは協力し合う思想や哲学の技術が活きるのだと私は感じました。

まだまだ残り2日間ありますが、子ども達へ譲れるものを掴んでいきたいと思います。

価値観の刷り込み

何かに取り組む時、こうでないといけないと思い込んだり、こうしなければならないと自分の価値観に頑なになるとその分、柔軟性を失い都合よく上手くいかないことにずっと苦しむことがあります。

自分の方が正しいと独善的に思い込んでしまうと、本来の正しいということが分からなくなるものです。

例えば、自分が正しいと思い込んでいると他人からは否定されていると感じてしまいます。そうなるといくら話をしても、何でこの人は自分を否定るするのだろうかと話を一向に聴き容れようとしなくなるのです。その時は自分が正しいということを認めさせたいと思うのだから相手の言うことは聴き容れたくないのです。

しかしそうではなく、相手が正しい、きっとまた何か自分に分からないことを伝えに来てくださっていると思えば、それは否定ではなく批判であることに気づき自分から信頼を寄せるようにすぐに素直に聴き容れることができるようになるのです。

人は自分の方が正しいと思うのは、自分の中にある価値観がそうさせてしまうのです。

人は様々な価値観の人たちがいて、それぞれに自分が正しいと思い込んでしまっているのです。立ち位置や立場から正しいと思ったことを、さもそれが絶対的な真実であるかのように正しいと言い切っているのです。

しかし実際は、相手は自分ではないし、自分も相手ではないのだから価値観が異なっている人たちばかりでこの世の中は存在しているのです。相手の立場で考えれば真実であることもあれば、自分の立場で考えればそれは真実とは異なることももあるのです。

つまりは、人は立ち位置が変わればいくらでも真実は存在するのです。それが価値観なのです。そしてだからこそ相手の立場で考えて思いやれる柔軟性が必要になるのです。

人生も同じく、無数にそれぞれが主人公で生きているのだからそれはそれで正しいのです。
そういうことを丸ごと認めていくことができれば、自分というものも分かるようになってきます。

自分が分かるのは、相手がいてはじめてわかるというのも認めるからこそできるのです。
そしてそれは自分が素直でなければ認めることはできないのです。

例えば、ある失敗をしたとしても自分が正しいと思っていればその失敗にも気づきません。いつまでもその失敗を悔いてばかりでどうやったら正しくできるかばかりに執着してしまうものなのです。そうではなく、そこから「とても有難い体験をさせてもらった、本当に勿体ない回訓を得た、大事なことを教えていただいた、 また偉大な学びをさせてもらった」というように素直に謙虚に歩んでいることになるのだと思います。

そうしていけば、必ず自分が足るを知り恵まれていることに感謝の念が湧いてくるのです。

人は決して一人では生きられません。

人という字は、人が重なり合ってできている字です。
きっとこの字を生み出した人は、素直に人がどういうものかを感じたのです。

人であろうとすることは、自分らしくいろうとすること。
子ども心を一生持ち続けられるような素直な自分でありたいと思います。

 

祈る

祈るというものがある。

これは自分の心が正直に思うことを念じる事である。

素直に自分の心が澄んでいれば、それはいつも祈りの中にあると言っていいと思います。しかし人はすぐに何かの情報を目で追い、頭で処理をするうちに雑念ばかりを優先してしまうものです。

人はすぐに何かがあれば疑いを持ち、何かがあれば不信に思い、そもそもの実践を怠ります。本来、動的にも静的にも祈るというのは、信じるということに他なりません。

素直な自分の心が何を感じているのか、本来の自分は本当はどう思っているのか、そういうものを偽ったりそういうものに何かが覆いかぶされば心は澄んでこなくなるものです。

人は表面上に顕われている姿は、あくまで氷山の一角でありその中には大変奥深い人格というものがあります。赤ちゃんを観ていたら神々しく感じるように、子どもの頃はそれがむき出しに全身から醸し出しているものです。

透き通るような眼も、透き通るような姿もその心もすべては心身一如の姿であるからです。
その素直な状態、正直な真心の顕われに私たちは癒され本当の自分を感化されるのです。

人が本当の自分を見失うのは、何かを追ってしまうからなのです。そしてこの追うという心境は、これは何かの「我」に囚われていることがあるということを意味するのです。それが執着であったり、自分の欲しているものであったりこうでなくてはいけないと頑なに思うものなのです。

理念などは自分の我を正しい方へと向けるためにもそこに自分を合わせていこうとして取り組むことで、こだわりを善い方へと転じることができます。しかしもしも理念に忠実であることを忘れ、自分の我を優先してこだわればそれは偏った執着となってしまうのです。

欲とはどうしても何か手に入れたいと思う方へであり、真心は少しでも譲りたいと思う方であろうと思います。

人生はどれだけのものを手に入れても、どうせ死んでもっていける物はありません。

そう考えればもっとも心が望んでいるものは祈ることではないでしょうか。
祈るのは、信じる事です、信じることは素直な自分でいることなのです。

子どもを丸ごと信じる事ができたかどうかというその子どもは、素直な自分の心にもともといるインナーチャイルドを信じてあげることができたかどうかであり、そしてそのままに子どもに接するように自らが正直に生きることができているかどうかなのです。

つまりは正直なまま自分らしく自然体でいれたかどうかということでもあるのです。
立場が本来の自分ではありませんから、素のままの自分でいられる心を祈りたいと思います。

多くの人たちが多忙になり心を見失っているようにも思います。
自分の身の周りから道の出逢いを大切に、日々に祈りを籠めていこうと思います。

自分に合うということ

何か自分のイメージしているカタチというものがありそれに固執すると柔軟性を失ってしまうというものがある。

例えば「欲を出してここまでは」や「無理をして何とかあそこまで」などと、自分の都合を優先すればするほどに頑固になってしまうものなのです。では逆に手抜きをすればいいということではなく、合わないことに無理強いしないということが大事だと思うのです。

すべてのことがそうですが、自分に何かを合わせていこうとすれば合わないことを苦しみますが、自分から自然に合わせていこうとすれば次第にそれは合っていくのです。

この合うというのはとても大事なことで、最初から無理をしないままの自分でいようとすることと同じ意味であるのです。無理をするというのは、無理やりに何かに合わせようとするのですがこの言葉自体が自分から合わせないと言っているような意味なのです。

今の自分を受け容れるということは決してネガティブなことではありません。それはとてもポジティブであり、素直で正直な元来の自分の現れでもあります。

それは本当の自分を知ることになり、自分の得意なことは何なのか、自分の苦手なことが何なのかが分かるということでもあるからです。

人は自分というものを実はほとんどの人がよく分かっていません。自分がどういう人であるのか、自分が何に向いているのか、大抵はほとんどが自分の思い込みや周りからの思い込みに左右されて本来の自分を分からなくしてしまっているのです。

そしてそういう間違った自己認識を持ったままであるから、合うはずと思っていることでも実際は自分と合わないことをずっとやっていることがほとんどなのです。

本来、社会は広く大きく複雑なのだから別に自分が完璧に一人で何かをする必用はまったくありません。できたらみんな自分が合うところにぴたっと合うことが幸せだと感じているのです。なぜなら人は認められたいと思っているからです。

この認められたいというのは、自分が合うところにいたいということと同じ意味です。そしてそれが居心地の善さというものでもあるのです。自分が居心地が悪いのであれば、どこか無理をして不自然な姿になっているかもしれません。その無理が周囲を遠慮させ、周囲が遠慮することでまた無理を生じるのです。

私たち人間も動物も植物も、自然で考えれば無理のないところにいるのが一番です。一つの理念のもと、みんなが幸せに暮らすというのはそれぞれの持ち味を活かすということでもあるのです。そしてそれを言い換えれば、「自分に合う」ということなのだと私は思います。

無理をしないように自分をいつもオープンにすることや自然体でいることは、居心地の善い関係を構築しているとも言えるのです。自分に合った場所で、世の中のために貢献することはその人の個性を丸ごと活かすことになっていくのです。

自分が幸せであれば周囲は幸せなのです、自分に自信があれば周囲も自信を持つのです。自分自身の存在を如何に丸ごと認めていくかというのは、自分に正直にいるということ、つまりは自分が合っているということなのです。

保育というものの奥深さを最近は特に実感し、保育を合わせていく一体感の歓びと楽しさを心から感じています。

学ぶということ

何かをはじめるときにその物事をよく知らないからできないとか、できないから分からないという人がいます。

例えば、何かを行う際に先に自分でやってみるなかで習いたいと思えば習うというのが本来の進め方であるのに、その習い事を探しているうちに分かった気になってしまうということになっていつまでたってもやらないことになったりしています。

もしくは先に習った通りにしていればいいとし、自分でその智慧や理論をいつまでも修得しようとしなければそれもやれないやできないという理由と同じことなのです。

知行合一という言葉があります。

この本質は、知ってから行うのでもなく、行ってから知ることでもなく、知ることは行うことで、行うことは知ることだとそれは分かれていないのだと言っているのです。

だからこそ先ほどの例で言えば、自分でものにしながら習うことと、習いながらも自分のものにしていくことが自修自得という元々の「学ぶ」ということになっているのだと私は思います。

この「学ぶ」というのは、今の学校教育の中で刷り込まれるように単に知識を積み上げていくことではありません。もともと学ぶのは何かを積み上げていくのではなく、ゼロにしていくこと、つまり中庸でありつづけることが本来の学ぶということになるのです。

つまりは学ぶとは学びゼロにするのだから私にとっては学び直すことだと定義しています。

これは例えば、人生の新人でいえば、学びの上書きを続けることで常に自分を正しく新しくしていこうと努力しますし、ベテランでいえば今までの学びの削除を続ける事で正しく新しくしていこうと精進するのです。どちらも、足したり引いたりしていますがそれをすることで偏重しないように元々の真っ新の状態を維持していくのです。

学びというのは常に自分を直す、つまりはいつまでも本質であることを自分が維持継続するためにも一生をかけて取り組んでいくことだと私は思います。死ぬまで学問というのも、それは学び続けることが人生であると思うからです。

人は生きていると、知るや行うの言うや行うということの不調和が発生し次第に独善的に陥ってしまうことがあります。そういうときは、無条件で信頼する人の話を聴いたりすることで学び直しをしたり、自分に何か分からないことを言ってくださっていると謙虚に受け止めることで学び直しやすい自己管理を続けていかなければなりません。

私自身、素直であることを信条にし日々に優先しますがまだまだ多くの人たちの信頼を得るには実力が必要だと痛感しています。常に、自らの学びを通して、自らが姿勢を直し、自らが心を直し、澄んだ真心の発露と学び直しの実践をこれからも続けていこうと思います。

オープンな絆

信頼関係を築くのに御互いが遠慮がなくなるということはとても大切なことです。

よく友人関係の中で、「遠慮するなよ」という言葉があるのはもっと親しいのだからという言葉が隠れています。それくらい自分のことを頼っていいよというオープンな言葉がけであるのです。

しかし逆に「遠慮しろよ」というのは、親しくないのだから気軽に頼まないでという意味で使われているのです。もともとこの遠慮というのは、遠くを慮るという意味でつかわれていた言葉ですが親しみの距離感でも使われるようになったのです。

また配慮という言葉も似たものにありますが、これは心配りや思いやりといった遠慮とはまったく意味の異なる言葉であるのです。配慮が必要という言葉は、もっと思いやりが必用、真心や心がけを大切にしなさいという意味であるのです。

例えば誰かのために何かをするにも、自分の欲を満たそうとすることが入り混じっていたり、本当に相手のことを思いやるよりも自分が認められたいからやっていたりする人はどこか配慮が足りないと言われてしまいます。もっと謙虚に、相手の御蔭だといのるように自分の我を交えずに真心尽くせば配慮が行き届いた贈り物や支援、幸福を与えることができるようにもなるのです。

この遠慮というものは、なぜでは遠慮しているかと言えば自分が無理をするからです。

自分が無理をするというのを異なる側面から分析すれば、それは相手を頼ろうとしないという自分の心境が表に出ているからです。相手を信頼しなければ、その問題は全部自分で解決しなければならないことになります。そしてそうやって大変な状態になっているのにも関わらずそれでも信頼しないというのはもっと無理をすると言っているのと同時に、遠慮しますと親しみから離れてくださいとも言っているのです。

私がよく言う、「無理をしないで」というのは、自分に無理をしないでという意味なのです。

それは言い換えれば、もっと自分を大切に思いやってください、そして私を信頼して何でも頼ってきてくださいねと伝えているのと同じ意味なのです。これが自分に無理ばかりを強いる人ではかえって周囲を遠慮がちに換えていくのです。

自分に無理をしないというのは、自分に何ができて何ができないかと正しく自覚することができるということでそれは自立しているとも言えるのです。自立というのは、如何に他人の力を頼ることができるか、そして自分の力を他に活かすことができるか、つまり貢献と共生が可能であるかを言うのです。

これを勘違いしている人はたくさんいて、特に仕事といった一人では大変難しい事柄こそ人間関係の構築、つまりは心のオープンさというのは何よりも欠かせない大切な関わりの技術であるのです。

心の距離感を親しみを籠めて自分から相手に任せること、委ねることを怖がっていてはいけません。人はみんな不安を大なり小なり抱えているからこそ、思い切って不安を語れる関係、無理しない関係を自分から歩み寄っていくことで配慮し合い遠慮ないオープンな絆ができてくるからです。

実践を積み上げて、周囲を明るくしていこうと思います。

 

方向性

人には向き不向きというものがある。

最初は苦手なことで時間が経てば上達することもある、また逆もある。能力的な問題でどのような能力がついているかで以前の学校では自分の向き不向きを判断されたものです。

ある人は背が高いからバスケットボールをやるや、絵が上手だから美術をやることや、持久力があるからマラソンをするなどあるけれど、実際にはどの種目かどうかよりも、その人自身がどのような方向を向いて伸びようとしているのかが大事なのだと私は思います。

途中にどのようなプロセスを経るかは頭で考えてもよく分からないものです。

目先を見ては、何に向いている向いていないとありますが目先で向いていることを選択しても本当に本人が果たしたい役割がすぐに果たせるとは限らないからです。

遠くを観るということが大切なのは、遠くを観ていれば自分が通っているプロセスは全部必要であると感じることができるからです。その上で、どのように進むか、時折は必要な寄り道もあるのです。

いきなり直行でゴールまでというものは人生の中ではありません。雨が降って地面に水路ができるように、様々な事柄が集まって一つの道ができてくるのです。そして最後は海に繋がっていくように最終的には他の人たちと同じようにいのちの海に到達するのではないでしょうか。

子ども達には無限の可能性があり、どのような選択をしても最終的には望んでいるようになると信じる事が大事です。そして最終的には自分を信じる事が出来れば自然に天命や天分を活かすような生きる力を発揮していくのだと思います。

どのような結果になっても、それを如何に丸ごと認めるかというのは本当にその人の目指す方向性を全面支援するということになります。そしてそこに、無償の愛や真心や親心が入っていくのだと思います。

まずは自分自身の実践から積み重ねていこうと思います。

自分に正直に

人が何かを選択するときには、どれくらいの納得度かは重要なことになる。

納得も表面上だけを見てかっこいいからや周りがそうだからで決めているのは浅いものになっているし、一生かけてや最後まで遣り通すや、本心からなくてはならないほどに大切であると決めているのは深いものになっている。

人が何かを決めるときに、どれくらい大切な事柄かどうかで決め方というのは異なるものです。そしてこの納得度とはその人の生き方が出てくるのです。

若いころに傍で学んだ実力のある経営者の方に学んだのは決断力というものがありました。あのころは何を注文するのも即断即決の練習をさせられたものです、例えばレストランのメニューやその他の判断に迷いを持たないようにすぐに決めるということをたくさんやりました。

その練習では、たくさん判断ミスで変なものを食べたり、間違ってしまったりもありました。

しかし今思えば、言行一致、考動一致しているかどうかを試されたように思います。人は普段から自分との対話を本心から自問自答していれば、ほとんど自分に正直に判断するのですべては納得いくように過ごせます。

心が澄んでいれば、多くの情報を一重に直観する力も備わっていきます。

しかし自分を偽り、自分を欺き、他問他答で判断を他人任せに他人に受け身であれば次第に自分の意見を持たなくなって同調してしまうのです。どうせ無理という言葉や、どうせ自分が決めても覆されるからといったネガティブな諦め癖がつけば正直さというものがどういうものかも分からなくなってくるものです。そうすれば自分の本心ではなく、自分の目で追っている思考だけで判断するようになるのです。

自分に正直であるというのは、どれだけ自分が納得した人生を送っているかに由ります。
自分に聴き、自分の心からで取り組むことができるのがその人らしい納得の場所なのです。

自分の信頼する人の意見はいつも自分の本心を言い当ててくれます。
どれだけ信頼する人が多いかは、それだけ今が自分らしくいることの証にもなります。

いつまでも自分に正直に納得して生きていけるよう、自他全体を深く信頼し、子ども達の今を認めて尊重し見守りたいと思います。

禍福一円

ポジティブシンキングというものがある。これは単に前向きであればいいということではなく、如何に悪いことにしないと自らの生き方や心の姿勢を転じることをいうのです。

もともと出来事には常に少なくても2面以上の側面がります。
それはその出来事に正対する人の都合でどうにでも解釈し運ぶことができるからです。

例えば、ある人が仕事で結果が出なかったという事実があればそれを転じてどう受け止め行動をするかにはいくつかあるはずです。また逆に結果が出たという事実があってもそれをどう受け止めて行動するかでまたその事実は変わってきます。

よくプロフェッショナルのインタビューで、「結果が出ないときにはこれは必ず自分が何か見落としているという気づきですからこれをチャンスに換えて必ず目的を達します」と発言します。そして逆に「結果が出ていますがこれは皆様の御蔭で出たもので自分がやったことではありません。そしてまだ確実に”もの”になっているとは言えません、だからこそ今回の結果を大切に受け止めてまだまだ改善に精進していきます。」と発言します。

このように転じる力をよく知る人は、その事実が一つであったとしても、それを受け取る受け手の力でまったく事実は変わってくるのが分かっているのです。

そしてそれが「努力」の本質「であろうとも思います。

よく精神論で頑張りますという言葉がありますが、何を頑張るかといえば単に結果を出すために頑張りますと言っているのです。出ないので出しますでは、そこに転じる力が入っていなければ単に結果に対してものを言っているだけになっているのです。

昨日、ミッションパートナーから打ち合わせの中で幸田露伴の「3つの福」の話をお聴きしました。

「惜福」、「分福」、「植福」の3つだといいます。

「惜福」とは、めぐってきた幸運を一挙に使い果たさないこと
「分福」とは、天から与えられた福を他人にも分け与えること
「植福」とは、人のためになる「福の創造」を行い世話したり改良したりすることによって「福の増殖」を行うこと

営業の仕事でもそうですが、会社の経営でもそうですが、時間も出会いも自他の人生もすべては大切な財産です。それは大切な財産ともいう根源的な「福」をどのように活かしているかということに通じています。

しかしその財産を活かす人と、その財産を単に使いきっている人がいるのです。本当の意味での「貢献」とは、この財産を福としどのように大切に活かし、そして用いるかのですべてが変わってくるのを自覚していることなのです。

そしてやはりそれは生き方から変わっていくのだとも思いますが、これはどれだけ誠実に「真摯」であるかにも言え、これからの新しい時代のリーダー像には欠かせない要素なのです。

だからこそどのような環境下であっても時代であっても、この転じる力を磨くことは人として何よりも大切にしなければならぬ道の一つであるのです。

子どもたちが大人になっても子どもらしさを失わないために実践を積んでいこうと思います。