生き方と思い込み

世の中には今までの慣習というものがある。

一時期はとても善いことだと言われていたことが、時間が経つことで悪しきものに換わってしまっているものがある。本人たちは善いことだと思い込んでいたら、いくら他の人がそれが間違っていると諭しても気づくことがないのです。

思い込みというのは、ある時点での自分の価値観への固執ともいいます。その時機は、それで周囲に褒められ、自分自身の中でも善いことをしたと実感するのです。だからといって、それが正しいと思い込むのはおかしなことで大切なことは思い込みよりも思いやりを優先していく必要があるのです。

例えば、人付き合いなどもそうですが物がなかった時代は物を持ち込めば誰でも喜んでくれたことがあります。しかし、時代が変わり物が増えたのに物を持ち込まれたらもうそれは押し売りの情報でしかなかったりするのです。

ここでの大切なのは、思い込みではなく思いやりで物があるかないかではなく常に自分がどういう生き方をしているかが問われるのです。

今の時代はもっと便利になるや、もっと楽にできるというキャッチはもう通じません。
なぜなら、それをすることに慣れてしまいそんなにいうほどの魅力を感じなくなったからです。

物品購入などもそうですが単に作業が楽になるからと購入したものも、そのうち使いづらくなっていきます、そしてそれを新しくしていくにはかなりの総合的な費用がかかります。そして、何のために導入したのかを見失うことで無駄やムラが発生するのです。

しかしこの思い込みもポジティブな方へと使うこともできます。

私たちの会社のソフトもそうですが、最初の初心をそのまま思い込み大切に維持していくなら維持費用は高くはなくむしろそれがある御蔭で大切な初心を守り続ける事が出来るのです。

思い込みは、言い換えれば「初心を忘れない」というようにも使えるということなのです。

ある人は、私たちが何か離れていく感覚があると言われますがそうではなくブレナイということなのです。生き方がブレナイ、初心がブレていなければ決して離れていくとは思わず、一緒に取り組んでいると思うはずなのです。

道を共に歩むということは、そういう生き方を定め、思い込みをポジティブにしていくことなのです。これからも初心を忘れないように一つ一つの刷り込みを丁寧に取り除いていきたいと思います。

独善的

思い込みというものを人は一度持ってしまうとなかなか抜け出せないものです。

きっとこうなのだと思い込むと、どうしても他の方法が見えなくなります。
それに思い込むからこそ視野が狭まり、自分の感覚よりも意識に縛られてしまいます。

何度も何度も同じことを繰り返していても打破できないのはほとんどが思い込みであることが多いのです。人の可能性というものは、あらゆることを試すことで広がっていくものです。しかしそれを試す前に、何かに囚われれば試そうとしても間違ってしまうのです。

ある場所に水の配管があると思い込んでそこを掘っていても、実際は違う場所で在る場合はいくら掘っても出てくることはありません。それなのにいつまでも勘違いしてそこにあるはずだという認識を持ってしまうことがあるのです。そうやっているうちに、抜け出せないまま停滞したり時間が過ぎて善くない結果が訪れてしまうということもあるのです。

こういうものを 思い込みともいいます。
そしてそれは自分の考えだけが正しいと思い込んだということなのです。

そしてこれを独善的だといいます。
人が一人で生きてはゆけないのもここからも考察できるのです。

そういうものに陥らないためには、協力や信頼できる自分以外の仲間が必要なのです。
自分の考え以外に正しいことがわかれば、その思い込みが晴れていきます。
そしてお互いをポジティブに疑うことができるのです。

疑うというのもネガティブなものとポジティブなものがあり、協力するときの疑いはポジティブなのです。一人で解決しない、信頼する人と協力する、相談する、一緒にすることが独善的を防ぐ方法になります。

一人でやりなさいという風潮がある社会ですが、信頼できる人とやる事の方が豊かです。
思い込みを持たないよう、信頼を優先していこうと思います。

別世界

先日、ある体験をしました。

「なで石」といって、石をなでると軽くなり、叩くと重くなるという不思議な現象の石です。
一見、気持ちの問題ともいえるようなもので感覚的なものかと思うところです。

科学で分析するだけでは分からないことがこの世の中にはたくさんあります。
科学を創りだしているのが人間である以上、見える範囲もその範疇なのでしょう。

この何かの物との相関関係というものはよくあるものです。

私も昔から、自分の商売道具や相手への贈り物、また自分を包んでくれたり運んでくれたりするものは意識的に常に大切にかかわっています。そうすることで、大事な場面でよく活躍してくれたり、ここぞの時に能力を発揮しくれたりもします。

まるで物にも心があるようにという言い方が分かると思いますが、そういう互いの心の通じ合いというものが起きてくるのです。

人は一見、動いているものにしか心がないと思ってしまいます。静止しているものにはそういう心がないのだと思い込んでもいるものです。今は特に西洋文化が入ってきては、大量生産大量消費、そしてゴミを捨てるという考え方も定着し、ますます物には心などはないと言い切る人も増えてきています。

目に見えるものを追えば、動くものを追うようになり、目には見えないものを捉ええていれば、やはり目には見えないものを捉えることができるのです。その時々に自分がどの目で物事を観るかで、そのものとの関係を創っていけるのだと私は思います。

自分がどのような心で接するか、自分がどのような目を持っているか、自分がどのような手で触れるのか、この世界は自分の関わり方一つで別世界にもなるのです。外界に対する自分の在り方を問い、自然と一体になって周囲を味わっていきたいと思います。

日本暮らし

今年から日本の暮らしや子どもたちに継承するような生活を学び直している。

自然養鶏も行いながら発酵床をつくり、その状態を見守っている中でたくさんの気づくことがある。そもそも土というもの中には、たくさんの生物が存在してる。私たちの身体で言えば、腸の中のような状態であろうとも思います。

見えない所で大きな働きをしてくれていて、私たちが取り入れる食べものなどを腸内細菌が分解しそれを発酵をしてよりよい状態にして体に取り込めるようにしてくださっているのです。土も同じく、発酵をして植物が吸収できるようにしてくれ土中では様々な細菌や虫たちが生存することで地球に取り込みながら循環を続けています。

私たちは野菜を食べるのではなく土を食べているともいえるのは、正確には土で食べているからなのです。この土をよくしていくという思想は、土そのものの循環を邪魔しないという考え方に似ているのです。

私たちがもし地球の一部だと仮定すれば、食べているのは自然現象のひとつなのです。

その当たり前の中にスパンと入っていくことこそが大切な生き方だと思います。自然に溶け込み自然の一部になるということは、私たちがもともとどういう存在かを大局的に理解し、そこに合わせていくことでバランスを取り戻しているともいえるのです。

西洋的な神が生んだという考え方は、私たちに根付いている自然にあったものとは違います。さらに日本の八百万の神々といったまるごとみんなで一つの存在という繋がりの思想とも異なります。

もっと自然現象に目を向けて、それが分かれる前にどうであったを知るべきです。
大いなるいのちのめぐり、繋がりの中に身をおく安らぎや幸せは計り知れないものです。

自然養鶏も自然養虫も自然養菜も自然養人も、みな根源は一つであるのです。
日本暮らしを楽しんでいきたいと思います。

自己開発を楽しむ

もともと誰にも人には得手不得手というものがあり、また興味関心の差というものもあります。

もともと自分の得意なことで自ずから興味関心があるものは、時間が経てば放っておいても次第にそれは世間で役立つように力をつけてくるものです。しかしもともと不得意で興味関心がないものは、いくら何度も教えても一向に力をつけてはこないものです。

しかし誰でも知っているそこには落とし穴もあり、それにはもともとの得意不得意とは別に単にその人の思い込みの場合もあるのです。

例えば、ふとしたきっかけで目覚めてしまいある時から急に成長するというものもあります。

ある人は、営業は向いていないといつもことがあれば自分から人間関係が苦手だからと周囲に語っていたとします。しかし、実際に連れて行ったりやってみたりしてみると急に目覚めてこんな面白いことだとは思わなかったと気が付いたときにはもっとも成果をあげる人になっていたりするものです。

他にも、運動できない人がマラソンランナーになったり、勉強ができない人が先生になったりと、人生は何度も円転しながら自分の得意に出会っていくのです。この本当の自分を知るということは、自分の思い込みを取り除くともいうのです。

自分を知らない人の本人の思い込みが一番当てにならないものなのです。
何でも好奇心旺盛な人は、やってみてない新しいことにどんどんチャレンジします。
子どももそうですが、面白いと思えば気が付けばそれが身になっていたりするものです。これがその思い込みを取り除く方法の一つなのです。

心が正直に素直な状態のときに自分が一番開発されていくのですからやっぱりそのように自分を開発していくことが大事なのです。そしてそれはどのようにしていくかといえば、自分から自分の心に従順になるのが一番なのです。

論語に「これを知る者はこれを好む者に如かずこれを好む者はこれを楽しむ者に如かず」とありますが、この通りで、自分から楽しむ人には誰も敵いません。

人生もそうですが、与えられた人生はみんな等しく同じようなものです。ある人は不幸だとかある人は幸だとは言いますが、誰にしろ人生には喜怒哀楽の事件はつきものです。それを真底味わって楽しんでいこうという心構えの人と、また嫌なことが起きたなと避けようとする人では、人生に対する面白味が足りないともいえるのです。

そしてこういうものが「生き方」のことを言うのです。

自分がどのように生きていくかの生き方を決めたら、それを実行する。それだけなのですが、世の中には自分の思い込みに囚われ価値観を刷新できずにいつまでも生き方まで辿りつかずに抜け出せない人たちがたくさんいるのです。出会いが他人を換えるのだから、やはり出会いを大切にしなければなりません。

そしてもし刷り込みを取ることができ生き方を決めたらすぐに形を踏むことは大切なことです。

私の場合は、面白くないことを面白くしようと「面白いなぁ」という口癖をつけるところからやっているうちに次第に何でも面白いことばかりの日々になっていきました。

これからも子どもたちが楽しい毎日を過ごしているように、保育を学んでいきます。

かんながら人

現在では、西洋人と東洋人というように西と東で括られて語られています。

しかし私は、そしてその中間に私たちの祖先、古代のかんながら人というものがあると定義している。なぜなら、もともと私たちはどのような生き方をめざし、どのような暮らしを行ってきたかと思えばそもそもが同じではないのはすぐに理解できるからです。

何でも便利に大きな分類にして言葉を定義しますが、そこが大きな間違いなのです。どんな小さなものにも霊性は宿っています、特に私たちの民がとても小さく可愛い物が好きなのもそのようなことからなのです。

はじめから分かれているものを無理やりまとめていてもそれでは多様性を否定します。

例えば、今の日本の職業分類もそうですがこの国はあまりにも職種が少なすぎます。

官公庁の都合で職種を分けますが、本質が何かを考えないからおかしくなるのです。
異なるものを同じように扱うから職業もいつまでたっても多様化しないのです。

以前訪問した国では、職種が1000以上あったところもありました、まだ増えています。
その方が色々な仕事があることを知り、そしてまた社会に新しく創ろうとしていくものです。

何でも国の基準にあわせ上位下達にやろうとしては必ず組織は硬直するものです。

話が戻りますが、そもそも「かんがながら人」とはどのようなものでしょうか。

神道では、すべての物や事、例えばそれが石から植物、水、空気、火や土、様々に加工されたものまでにいたるまですべてに「霊性」を持っているものとしていのちの中での繋がりを持ってきました。

今、着用している衣服から目の前で食べているもの、住んでいる家、このパソコンもそうですし、それは眼にはみえない人の思いやりや気づかいに至るまですべてそういうものから等しく霊性を感じることができる民族であったともいえるのです。

よく今の時代は、スピリチュアルやスローなどと言われますがもともとあれは西洋から渡来してきた言語でありそもそも私たちがいうような自然というものや自由という、「自ずから」というものとはその言葉の定義もまったく一線を画しているのです。

西洋では、自然は征服するものとして捉えています、神との契約や神が生んだという社会の思想と、私たち東洋がもともとあったや、あるがままの自然に溶け込むといったような在る無しを超えたところで絶対的に存在している自然ののことなどはわかっているはずがないのです。

そもそもの「自」というものが異なっているのです。それなのになぜか外国の言葉を使ってわざわざ自然を理解しようとするのはあまりにもナンセンスであろうとも感じます。

私たちには、もともとの暮らし、かんながら人としての生き方というものがあります。

それはいのちの廻りを通して、そのもの循環と一体となっていのちそのものが廻りつながっている中に共に棲むことです。そのために澄んだ心を持ったままに日々に貢献しあいながら一つの道を協働で歩み続けていく豊かで平和な生活スタイルこそが本来の私たちの在り方そのものであったはずなのです。

今のように急速に西洋化されていく世界で急速にバランスが壊れていく怖さを思います。

ここでそれぞれの人々が、それぞれの人々の役割を果たすためには多様化している人の暮らしを認めていけるような社会を構築しなければならないのではないかと私は思うのです。私の思うかんながら人はその自ずからの個性そのままの状態のままでいることがその人らしいということなのです、それを認めあえる社会がそもそもの私たちの民の根本理念です。

子どもたちが何を持って自然か、子どもが何をもって当たり前の暮らしなのか、それはもともとの私たちの暮らしに根付いているところから見直す必要があるのではないでしょうか。

社業を通して、何が何でも私たちの祖先が大切にしてきた働き方や暮らし方を具現化します。
決意新たに、確信を持って前に向かっていこうと思います。

価値観の変容

人が内面の自我を形成していくものに価値観というものがある。

人の生育には自分の養育された環境が与える影響は大きく、どのようなところで自分が育ってきたかでその影響を強く受けている。例えば、道徳的な環境で育った人たちはそれは当たり前であるように感じ、またスラム街のようなところで育った人たちも同じく周囲の環境は当たり前であるように思うものなのです。

これは環境というものが与えている影響を言いますが、その人の考え方に大変色濃く刷り込まれているとも言えるのです。本人は、そのような過去の環境のことなどは無自覚でいてもそれは新しく異なる環境下にいけばすぐに気づくものです。

しかしそこで新しい価値観に触れることでまた考え方が変わってくるともいえるのです。

人が変わるというのは、新しい価値観に触れることが大事で今までそれが当たり前であったことからそうではないものがあると思えるか、そしてその価値観が面白そうだと感じて自らが勇気を出して近づいていくことができるかということでもあるのです。

人はほとんど自分の居心地の善い場所を求めて彷徨います、そしてそこから容易に出ようとはしないものです、それは自分が一番長くそしてようやく落ち着いた環境の中で安心できるところをみつけたので、その自分にとって相応しいと思い込んでいるところから出たくないからです。

茹でガエルの話にあるように、一度、そこで安住してしまえばなかなか抜け出せないのと同じ話です。

同じように、自分の形成された価値観は知らずしらずに自分というものを大きく拘束しているものなのです。

その価値観の変化には常に恐怖と不安が伴います。

今までの考え方では理解できないことがたくさん顕われることに対する恐怖と不安ともいえます。知らないこと分からないことは予想ができず本能的にそれを避けようとするものです、一度やった体験が楽しければそれからは可能になりますが何でもはじめては怖いと思うものなのです。

そういうものを勇気を出して飛び込むことで乗り越えたとき価値観が変容していくのです。そういうときはできるかできないかではなく、やるかやらないかということを決心することが重要なことなのです。

自分を刷新するには、価値観のことを考えるのが一番です。好奇心旺盛に自分を常に新しい価値基準に合わせていけるよう希望に向かって自分から新しいところへとこの身を運んでいくことを優先していきたいと思います。

人類の選択

信頼関係というものは、人類が存続するうえでもっとも重要なものです。
人は交互に相手の立場になるように仕組まれていると感じることがあります。

それは立場を変えたり、環境が変わったり、人を換えたりしながら起きています。

人は自分から共感しようとしていなくても常にお互いを学び続けるようにできているのは本能のなせる業なのかもしれません。

しかしそれを思うとき、人類というものは如何にお互いを学びあっているかと思うのです。

人はみな我が鏡や、他人はみな我が師ではないですが、人間は信頼というものを学び続けて忘れないように何度も何度も同じように学び確かめ合っているようにも思うのです。

例えば、楽しいだけの人生ではなく、そこには悲しみや苦しみがあるように、また四季があり、温和な気候だけではなく寒気に凍てつくように、また栄枯盛衰ではないですが順繰りと何度も何度も同じように歴史が繰り返すのは人類が貢献というものを学ぶには必要な環境だからかもしれません。

因縁因果の環境を通じて、自分の順番が廻って来た時にそれぞれそうではなかった人たちの気持ちに共感するのです。いくら事前にきっとこうだろうと頭でっかちにそれをわかる機会を得たとしても、単にそれは頭で理解しただけで決して実体験ではないのですから、等しくこれは廻ります。

そしてこの同体験を通して、他人は様々なことを学び続けて結局は信頼関係を築くのです。
それは意識の無意識というものとは関係せず、人類の元々選んだ本能だとも言えるのです。

そして人間はそれからずっと自分以外の誰かに頼られるかどうかがもっとも大事な関心事であり、自分も頼ろうとするかが重要になりました。

人は人を頼らなければ自立したとはいいません。
人間の自立は、貢献することではじめて成り立つからです。

他に貢献することこそが信頼関係というものだからです。

今の社会では、自分ができるようになることや、自分ひとりでやるようにすることが自立だと勘違いさせられています。これは大きな間違いです。如何に、他人を頼り、如何に他人から頼られるか、大いに頼り、大いに頼られることこそが、互いの貢献度を上げていくことに繋がるのだと私は思います。

それに今は、自分のことばかりを優先してそれよりも大切な貢献を後にまわしたりすることが当たり前だと思われる社会になってきているように思います。これでは自己実現というものは成り立ちません、人は本来、成長よりも貢献を目指すのが自然の姿です、そして私たち人類も自然が選択したのと同じく「貢献」を選択して今があるのです。

これからも、貢献を優先する生き方を学び続け自然のありように学んでいこうと思います。

集団というテーマ

歴史を探訪していると、人と人が信頼をしあって大きなことを成し遂げたことに出逢います。
集団というものを形成していく中で、数々の困難を生き抜いてきたことを誇りに思います。

人間というものは、一人では生きてはいられず必ず誰かを必要とします。

その関係を上手に活かすことで平和な暮らしも、それぞれの自己実現も為し得ます。
集団とはもろ刃の剣でもあり、どうにでも動かされてしまうのも事実です。

時の権力者たちは、それを見抜き様々なやり方で研究され実証されてもきています。

それを政治ともいい、孔子の時代よりずっと以前から集団をどのようにしていけばよく治まり、集団をどのようにしていけば乱れるかというものも問い続けられてきました。

世の中が平和に治まるには、どのような集団を形成することか、そしてそれを為すリーダーというものはどうあるべきかを常に問われてきたのです。

歴史の中では、様々なタイプのリーダーがいます。個性豊かに、それぞれの方法で集団というものを守ろうとしてきました。それは集団がそうさせたとも言えるし、リーダーがあったから集団があったともいえます。如何に集団がよくなるかは、それぞれがみんなで考えていくものです。

そしてそれを今の時代では民主主義ともいいます。

一人一人がどうやったら平和な集団を形成できるかを、問うということでもあるのです。

神話の中で、仲睦まじく人々が暮らしてきた記憶が記録として語り継がれて今が在ります。
同じように歴史には、そういった時代があったことが記されているのです。

何度も何度も挑戦し、どうやったらそのような集団ができるのかは人間の永遠のテーマです。
信頼しあうということや、助け合うということ、絆を持つのも、すべては集団のためなのです。

みんなで活かし合う関係を求めるのは人間の根源的な欲求なのです。
時を遡りながら、そういう思いに心を馳せてみようと思います。

 

志の同体験

言葉にはならないときに学んだことは一生の記憶として心身に刻まれている。

言葉の最初に使っていた、アレやコレ、イイやイヤなどあまり説明もいらず指さしや簡単な動作だけで対話していた頃は、ありのままのものをありのままに受け容れることも受け取ることもできていた。

例えば自然の中に入れば、言葉はなくそこにはそのままに聴こえてくる音や、そのままに感じる気温、そのままに観える景色だけがその存在が何かを明らかにした。そして自分自身がその中に入るという感覚、そして出るという感覚を得たものです。

言葉ができるようになってより、人という文化圏内の中でたくさんの人たちの集団で対話ができるようになり、また同時にたくさんの記憶媒体としての過去の集団が必要とした書物や文字に出逢いました。その御蔭で、過去がどうだったのか、また大切なことは何かと子孫に自分たちの学んだことを少しでも遺そうと歴史として遺しているのです。

しかし本質へと辿ればその歴史の言葉には今の私たちには気づきのキッカケを与えるだけのものでしかなく、本来はやはり同体験をすることでしか丸ごとの体験の記憶を受け取ることはできないのです。

体験を受け取るというものは、頭だけで考えて理解したバーチャルな世界のものではありません。テレビをみたり、本を読んだり、漫画を見たりと、脳では大体の理解は生まれても、本当にそれを体験したわけではないので如何にそれが大切なことであるかまでは同じ質量を心で感じられないのです。

戦争体験なども、それを体験していないものは体験した人と同質同量にならないのです。

世の中がなぜ何度も何度も悍ましい戦争を繰り返し、そして何度も何度も悲劇が起きるのかはそれは体験を通じて伝承されているものではないからです。

修行僧などもそうですが、はじまりの気づきを忘れないように同体験を通して大切なことを伝えようとしているのです。しかしそれは一般的なノウハウや方法の一つになってしまい、その初めの心や志を全く同じく体験することではないのです。

はじまりが如何に、人々の真の苦しみを取り除きたいと思ってもそれを本当に継承するのは同体験まで昇華されていなければ志や心までは同化できないのです。

人は時代時代に、その人なりに心の共通体験というものをする機会があります。それは望むというよりも天意というものもあるものです。如何に世の中を平安をもたらしたいかや、どれだけ人の苦しみを観て慈しみ愛するか、そういうものは自身の中から湧きあがるような心身の体験からでしか得られないのです。

そういった志の同体験が歴史を近づけてくるのだと私は思います。
自分の領域や自分の気づきが、その時代時代の歴史の気づきと邂逅していくのです。

だからこそ歴史に残っているものから、気高い理想を持ち歩んだ人々の生き方を観るのです。そしてその人たちと志を合わせていくことで感得し伝承をしていくのが正直正道だと私は思います。

言葉で教えられることはあくまでほんのわずかです。
実体験を実践を積み、深く掴み取り厚く感じとり心に染み入る日々を伝えていこうと思います。