言葉にはならないときに学んだことは一生の記憶として心身に刻まれている。
言葉の最初に使っていた、アレやコレ、イイやイヤなどあまり説明もいらず指さしや簡単な動作だけで対話していた頃は、ありのままのものをありのままに受け容れることも受け取ることもできていた。
例えば自然の中に入れば、言葉はなくそこにはそのままに聴こえてくる音や、そのままに感じる気温、そのままに観える景色だけがその存在が何かを明らかにした。そして自分自身がその中に入るという感覚、そして出るという感覚を得たものです。
言葉ができるようになってより、人という文化圏内の中でたくさんの人たちの集団で対話ができるようになり、また同時にたくさんの記憶媒体としての過去の集団が必要とした書物や文字に出逢いました。その御蔭で、過去がどうだったのか、また大切なことは何かと子孫に自分たちの学んだことを少しでも遺そうと歴史として遺しているのです。
しかし本質へと辿ればその歴史の言葉には今の私たちには気づきのキッカケを与えるだけのものでしかなく、本来はやはり同体験をすることでしか丸ごとの体験の記憶を受け取ることはできないのです。
体験を受け取るというものは、頭だけで考えて理解したバーチャルな世界のものではありません。テレビをみたり、本を読んだり、漫画を見たりと、脳では大体の理解は生まれても、本当にそれを体験したわけではないので如何にそれが大切なことであるかまでは同じ質量を心で感じられないのです。
戦争体験なども、それを体験していないものは体験した人と同質同量にならないのです。
世の中がなぜ何度も何度も悍ましい戦争を繰り返し、そして何度も何度も悲劇が起きるのかはそれは体験を通じて伝承されているものではないからです。
修行僧などもそうですが、はじまりの気づきを忘れないように同体験を通して大切なことを伝えようとしているのです。しかしそれは一般的なノウハウや方法の一つになってしまい、その初めの心や志を全く同じく体験することではないのです。
はじまりが如何に、人々の真の苦しみを取り除きたいと思ってもそれを本当に継承するのは同体験まで昇華されていなければ志や心までは同化できないのです。
人は時代時代に、その人なりに心の共通体験というものをする機会があります。それは望むというよりも天意というものもあるものです。如何に世の中を平安をもたらしたいかや、どれだけ人の苦しみを観て慈しみ愛するか、そういうものは自身の中から湧きあがるような心身の体験からでしか得られないのです。
そういった志の同体験が歴史を近づけてくるのだと私は思います。
自分の領域や自分の気づきが、その時代時代の歴史の気づきと邂逅していくのです。
だからこそ歴史に残っているものから、気高い理想を持ち歩んだ人々の生き方を観るのです。そしてその人たちと志を合わせていくことで感得し伝承をしていくのが正直正道だと私は思います。
言葉で教えられることはあくまでほんのわずかです。
実体験を実践を積み、深く掴み取り厚く感じとり心に染み入る日々を伝えていこうと思います。