適材適所

心を清めるということに、人の善いところを沢山探すというものがある。
人は他人のあらさがしをするほどに、心は穢れていくものです。

自分の思い通りにいかせることや、自分の都合よくなってほしいと思うことはすべてにおいて自分の欲望が出ているともいいます。自分の欲望というものはしかしそれは善い方へと転じていけばそれは意欲となったり意志になったりできるものです。

しかしどうしても自分の目先の都合が先に入ってしまえば他人に対しても器量の小さなことをしてしまうものなのです。何かを保育するや、人を育てるというのは自分の思い通りいかないものです。

それは植物でも野菜でも、動物でも昆虫でもそうですが、思いやりや真心でゆったりと長く待ってあげながらきめ細かな配慮が必要になるのと同じで、育つというものを見守るというのはその時の心には丸ごと認めているものがあるのです。

もちろん、何か人はそうなってほしいと理想のカタチばかりを押し付けてしまうものです。欲というものは、制止させておこうとするものにとても似ています。相手や周りが変わってしまわないようにと押し付けようとするものなのです。それでは適材が適所に落ち着きません、つまりは居心地が悪くなってしまうのです。

しかし本来は、そのものがそのままでいられるように自分自身の方が切り替わっていけばいい、自分の方が自然に柔軟に転じていけばいいということが本来の欲との付き合い方であろうとも私は思います。

現在、自然農をはじめ自然養鶏、自然発酵など様々なことに取り組んでいますが大切なことは自分自身の方がそのものの個性を認めて合わせていくことなのです。相手に合わせさせようとするのではなく、相手に迎合するのではなく、自分の方から在るがままであるほうへと合わせていくことができれば常に本質的な自分を変える必要はなくなるのです。

自分に無理をするのは、自分に周りを合わせようとするからであるのです。
自分に無理をしないというのは、自分から周りを丸ごと認めていけばいいのです。

この合わせるというのは、丸ごと認めるということであり元々そういうものなのだから自分が合わせてあげればいいと思いやりを持って見つめてあげるところからはじめればいいのです。

適材適所もそうですが、相手の善いところを観てそれを引き出し、相手の悪いところは無理に修正するのではなく気にならないようにしてあげることなども優しさであろうと私は思います。

心を清める実践を積んでいきたいと思います。