自分に合うということ

何か自分のイメージしているカタチというものがありそれに固執すると柔軟性を失ってしまうというものがある。

例えば「欲を出してここまでは」や「無理をして何とかあそこまで」などと、自分の都合を優先すればするほどに頑固になってしまうものなのです。では逆に手抜きをすればいいということではなく、合わないことに無理強いしないということが大事だと思うのです。

すべてのことがそうですが、自分に何かを合わせていこうとすれば合わないことを苦しみますが、自分から自然に合わせていこうとすれば次第にそれは合っていくのです。

この合うというのはとても大事なことで、最初から無理をしないままの自分でいようとすることと同じ意味であるのです。無理をするというのは、無理やりに何かに合わせようとするのですがこの言葉自体が自分から合わせないと言っているような意味なのです。

今の自分を受け容れるということは決してネガティブなことではありません。それはとてもポジティブであり、素直で正直な元来の自分の現れでもあります。

それは本当の自分を知ることになり、自分の得意なことは何なのか、自分の苦手なことが何なのかが分かるということでもあるからです。

人は自分というものを実はほとんどの人がよく分かっていません。自分がどういう人であるのか、自分が何に向いているのか、大抵はほとんどが自分の思い込みや周りからの思い込みに左右されて本来の自分を分からなくしてしまっているのです。

そしてそういう間違った自己認識を持ったままであるから、合うはずと思っていることでも実際は自分と合わないことをずっとやっていることがほとんどなのです。

本来、社会は広く大きく複雑なのだから別に自分が完璧に一人で何かをする必用はまったくありません。できたらみんな自分が合うところにぴたっと合うことが幸せだと感じているのです。なぜなら人は認められたいと思っているからです。

この認められたいというのは、自分が合うところにいたいということと同じ意味です。そしてそれが居心地の善さというものでもあるのです。自分が居心地が悪いのであれば、どこか無理をして不自然な姿になっているかもしれません。その無理が周囲を遠慮させ、周囲が遠慮することでまた無理を生じるのです。

私たち人間も動物も植物も、自然で考えれば無理のないところにいるのが一番です。一つの理念のもと、みんなが幸せに暮らすというのはそれぞれの持ち味を活かすということでもあるのです。そしてそれを言い換えれば、「自分に合う」ということなのだと私は思います。

無理をしないように自分をいつもオープンにすることや自然体でいることは、居心地の善い関係を構築しているとも言えるのです。自分に合った場所で、世の中のために貢献することはその人の個性を丸ごと活かすことになっていくのです。

自分が幸せであれば周囲は幸せなのです、自分に自信があれば周囲も自信を持つのです。自分自身の存在を如何に丸ごと認めていくかというのは、自分に正直にいるということ、つまりは自分が合っているということなのです。

保育というものの奥深さを最近は特に実感し、保育を合わせていく一体感の歓びと楽しさを心から感じています。