祈る

祈るというものがある。

これは自分の心が正直に思うことを念じる事である。

素直に自分の心が澄んでいれば、それはいつも祈りの中にあると言っていいと思います。しかし人はすぐに何かの情報を目で追い、頭で処理をするうちに雑念ばかりを優先してしまうものです。

人はすぐに何かがあれば疑いを持ち、何かがあれば不信に思い、そもそもの実践を怠ります。本来、動的にも静的にも祈るというのは、信じるということに他なりません。

素直な自分の心が何を感じているのか、本来の自分は本当はどう思っているのか、そういうものを偽ったりそういうものに何かが覆いかぶされば心は澄んでこなくなるものです。

人は表面上に顕われている姿は、あくまで氷山の一角でありその中には大変奥深い人格というものがあります。赤ちゃんを観ていたら神々しく感じるように、子どもの頃はそれがむき出しに全身から醸し出しているものです。

透き通るような眼も、透き通るような姿もその心もすべては心身一如の姿であるからです。
その素直な状態、正直な真心の顕われに私たちは癒され本当の自分を感化されるのです。

人が本当の自分を見失うのは、何かを追ってしまうからなのです。そしてこの追うという心境は、これは何かの「我」に囚われていることがあるということを意味するのです。それが執着であったり、自分の欲しているものであったりこうでなくてはいけないと頑なに思うものなのです。

理念などは自分の我を正しい方へと向けるためにもそこに自分を合わせていこうとして取り組むことで、こだわりを善い方へと転じることができます。しかしもしも理念に忠実であることを忘れ、自分の我を優先してこだわればそれは偏った執着となってしまうのです。

欲とはどうしても何か手に入れたいと思う方へであり、真心は少しでも譲りたいと思う方であろうと思います。

人生はどれだけのものを手に入れても、どうせ死んでもっていける物はありません。

そう考えればもっとも心が望んでいるものは祈ることではないでしょうか。
祈るのは、信じる事です、信じることは素直な自分でいることなのです。

子どもを丸ごと信じる事ができたかどうかというその子どもは、素直な自分の心にもともといるインナーチャイルドを信じてあげることができたかどうかであり、そしてそのままに子どもに接するように自らが正直に生きることができているかどうかなのです。

つまりは正直なまま自分らしく自然体でいれたかどうかということでもあるのです。
立場が本来の自分ではありませんから、素のままの自分でいられる心を祈りたいと思います。

多くの人たちが多忙になり心を見失っているようにも思います。
自分の身の周りから道の出逢いを大切に、日々に祈りを籠めていこうと思います。