価値観の刷り込み

何かに取り組む時、こうでないといけないと思い込んだり、こうしなければならないと自分の価値観に頑なになるとその分、柔軟性を失い都合よく上手くいかないことにずっと苦しむことがあります。

自分の方が正しいと独善的に思い込んでしまうと、本来の正しいということが分からなくなるものです。

例えば、自分が正しいと思い込んでいると他人からは否定されていると感じてしまいます。そうなるといくら話をしても、何でこの人は自分を否定るするのだろうかと話を一向に聴き容れようとしなくなるのです。その時は自分が正しいということを認めさせたいと思うのだから相手の言うことは聴き容れたくないのです。

しかしそうではなく、相手が正しい、きっとまた何か自分に分からないことを伝えに来てくださっていると思えば、それは否定ではなく批判であることに気づき自分から信頼を寄せるようにすぐに素直に聴き容れることができるようになるのです。

人は自分の方が正しいと思うのは、自分の中にある価値観がそうさせてしまうのです。

人は様々な価値観の人たちがいて、それぞれに自分が正しいと思い込んでしまっているのです。立ち位置や立場から正しいと思ったことを、さもそれが絶対的な真実であるかのように正しいと言い切っているのです。

しかし実際は、相手は自分ではないし、自分も相手ではないのだから価値観が異なっている人たちばかりでこの世の中は存在しているのです。相手の立場で考えれば真実であることもあれば、自分の立場で考えればそれは真実とは異なることももあるのです。

つまりは、人は立ち位置が変わればいくらでも真実は存在するのです。それが価値観なのです。そしてだからこそ相手の立場で考えて思いやれる柔軟性が必要になるのです。

人生も同じく、無数にそれぞれが主人公で生きているのだからそれはそれで正しいのです。
そういうことを丸ごと認めていくことができれば、自分というものも分かるようになってきます。

自分が分かるのは、相手がいてはじめてわかるというのも認めるからこそできるのです。
そしてそれは自分が素直でなければ認めることはできないのです。

例えば、ある失敗をしたとしても自分が正しいと思っていればその失敗にも気づきません。いつまでもその失敗を悔いてばかりでどうやったら正しくできるかばかりに執着してしまうものなのです。そうではなく、そこから「とても有難い体験をさせてもらった、本当に勿体ない回訓を得た、大事なことを教えていただいた、 また偉大な学びをさせてもらった」というように素直に謙虚に歩んでいることになるのだと思います。

そうしていけば、必ず自分が足るを知り恵まれていることに感謝の念が湧いてくるのです。

人は決して一人では生きられません。

人という字は、人が重なり合ってできている字です。
きっとこの字を生み出した人は、素直に人がどういうものかを感じたのです。

人であろうとすることは、自分らしくいろうとすること。
子ども心を一生持ち続けられるような素直な自分でありたいと思います。