自然のセンス

何かの物事を掴む時、感得するというものがある。

そもそも生まれた時からいきものにはすべて自分で感得する力を持っている。動植物から人間に至るまでありとあらゆるものすべてが生まれたときにどうすればいいかを知っている。

例えば、野生動物の赤ちゃんがいきなり立ち上がり歩き出したりするのも、生まれてきてから瞬時に動きだし生きるために自分の身体を変態させるのも、すべてははじめから知っているとも言えるのです。

そしてそういう野生のセンス、つまりは自分で感得するものこそが本来のあるがままの状態であるとも言えるのです。あるがままの状態に任せていたら、それが一番自分らしく自分にあったものとして今の世界の循環に合わせていくことができるとも言えます。

生きものというものは、初めてこの世に出てくるときにこの世がどういうものかを直観で理解しそのままに生きようとすることが自然界であるとも言えるのです。

しかし私たち人間は、そのあとに教えられた知識の方で分かるようになるものです。赤ちゃんは最初から理解しているのに、私たち大人は教えてもらわなければ何もわからない存在になってしまっているともいえます。

昔から考えるよりも感じろとあるように、自らのセンスを信じるときどうあればいいのかが自分で掴んでいくことができるともいえます。学ぶといっても、教えてもらって学ぼうとする姿勢と、そもそも自分で感じて動いて気づいて考えてものにして掴もうと学ぶ姿勢では、その人の生き方がそこで決まってしまうのです。

自在というものは、そういう自分みずからで感得していくことで得られる境地だと思います。そしてそれに自由がつくには、やはりそういうものを感得しつつ今の社会の中で如何に教養を磨いて他人様のお役に立つかという真心も同時に学ぶ必要があるのだと思います。

常に自らのセンスで気づきつつも、同時にそれを謙虚に学び続けるということが自然の法理を学ぶことに繋がるのだと私は実践の中で気づいています。これからも自らが信じるものを直観で導き出せるよう、日々に弛まず精進していきたいと思います。

自共生

人は共生していることやその根源を知るとき、自分から安らかなところに入る事ができる。

例えば、当たり前と言われるものの中にすべての本質があるように呼吸や水や土、風や光、星々や体や心などその中に共通するいのちを覚えるときに自分が共生していることを知るのです。

人の間にも当たり前すぎて意識しないものの中に共通するものがあります。それは御互いに認め合うといった尊重や尊敬という生かしあいというもの、つまりこれはお互いの存在に対する深い感謝ができているという共生が入っているのです。

古語に「親の心子知らず」や「親の恩は子を持って知る」、また「負うた子に教えられて浅瀬を渡る」や「老いては子に従え」などもそうですが、この親子間の道理にも共生という信が入っているという先人の智慧が法理を述べています。

この法理から観れば親のことを尊敬せず、孝行しない人では人生も成り立ちません。
また子どもを尊重せず、育てようとしない人も人生は成り立ちません。

これはお互いが認め合うといった信じる世界、つまりは共生があって互いが存在するのは絶対であるという意味なのです。当たり前ですが互いに生かしあい活きることで私たちは自分の役割を知ることができますし、それを全うすることではじめて周りに貢献するという幸せを噛み締めることができます。

そもそも「いのち」というものは、決してそのもの単体では存在できないような仕組みです。
全ての生命は食べ食べられるように、御互いがそれぞれのお役目を果たすことで成立します。

それはいくら自分がこれをやったや自分が生きているのだと錯覚しても、正確には何かに活かされないとこの体も維持していくことができないのです。そこには先述したような、共通する当たり前のものが確かに存在してそこに一本の大道が通っているのだと私は思います。

自分が生きるということは活かされているということを生きること。
つまりはそれは共生する中での自共生。

いのちがイキイキワクワクと躍動していくような、本気で豊かな自然に身を委ね、自らの子ども心に正直に、一度きりのオモシロイ人生を歩みきった背中を遺し譲っていこうと思います。

 

正解の本質

何かを行うときに、自分が正しいというものがある。

もちろん、誰かが正しい答えを持っていてその答えが正しいと信じ込めばそうではない答えは間違っていることになる。外側に正しいや答えを求めてみても、それが本当に正しいかどうかはその人でないと分からないのです。

つまりは、自分の絶対的なところで自分が信じるものが正しいということが分からないといつまでたっても誰かに正解を求めるようになってしまいます。自分自身の実体験の気づきを元にして、それが何なのかを自ずから気づき尽くすときに自分なりの正しい答えが現れます。

そういうものを積み重ねていくことで、掘り起こしていけば当たり前と今まで思っていたことも当たり前ではなくなり自分流の生き方に辿り着くことができるのだと思います。

もちろん世の中には数々の法則があり、それが人間界でのものと自然界でのものもあります。

どちらも共生が基盤となっているのでしょうが、その法則を違えばそれなりに自分の修正が問われます。しかし法則通りでやれば間違いがないという意味ではなく、その法則を用いてどのように自らを磨くか、正しい自分というものに出会うかが肝心なことであろうとも思います。

正しい自分とは、誰かと比べる自分ではありません。

自らが魂のようなものを練磨し、自らで修め磨いていく中で本物の自分と出会う。

こういう学びを続けていくことで、自立や自分流といったものが体得できるのだと思います。魂を磨き続ける事は、禍転じて福となすというように様々に起きていることを絶対的に信じることからはじまるのだと私は思います。問題が起きる事を恐れて無難に乗り切っているのでは、誰かの答えに依存するようになるかもしれません。

正解とは、正しく解するほどに自分を磨き本物にしていくことだと私は思います。
常に自らが実体験、知行合一、至誠と実行を大事に気づきを磨いていきたいと思います。

気づきを気づく

誰かに教わるという学びと、自分から明らかにするという学びがある。

前者は誰かによって教わった世界で物事を考えることでありそれはいつも教わったところでの気づきで自分の気づきを導引するような考え方です。もう一つは、これは今年の師とのテーマではありますが自明といった自らが持っているものを如何に明らかにしていくか、つまりは自分に気づくことに気づくかということでもあります。

私はどちらかと言えば、今までの学び方は自分が気づくために行動して気づいたことを学んでいたように思います。しかし、自分に気づくために学んでいたのとは少し異なっていたのです。

先日、ある方との面談の中でその方が自らの幼少時に気づいたことをさらに丸ごと深く掘りそれが何だったのか、つまりはそれは本当は何かと気づくことを聴かせていただきました。そしてそれは私の中にも在り、子ども心に自分が感じたものから明らかにすることができることを実感しました。

なぜ自分がこうしたのか、なぜ自分がこうなのか、それを客観的な分析ではなく、自らの体験による気づきに気づくといったさらにもう一つ別の丸ごとの自分という場所で理解することを覚えるのです。

よく師が、子どもはそうならないと断言したり、自らの本質が正しいことを証明するために理論化しているところを観れば、知識が先ではなく自分の中に存在する子どもの真実そのものが先に存在し、それの裏付けのために話すことが多いのです。

自分が観ているものの方を信じることや、自分がもともと持っていることの方を確かめるというのは、すべてにおいて自分の気づきを丸ごと学ぶということになるのです。それが刷り込みのない人であるともいうからです。

今年の師からのテーマは、自明。

そこに気づくことはできましたが、これからそれを楽しみながら直していこうと思います。
素直に謙虚に、本物であるように天の真心を感じながらかんながらの道を開いていきます。

天の心を敬う

西郷隆盛に「敬天愛人」がある。

そこには、「道は天地自然の物にして、人はこれを行うものなれば天を敬するを目的とす。天を敬い人を愛し、天を知り、己を尽くし、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ねるべし。」とある。

そもそも私たちが生きている世界は天地自然と共にあるからして、自分が生きるということであればそれを包み込んでくださっている天そのものを敬い続ける事こそが道の実践そのものであるという意味になる。そして、続けてその天を敬うような心のままに人を愛し、その天の心を学びながら自分自身を正しく生き、誰かのせいにしないでただ自分の真心が天と通じていないのではないかと確認しつづけなさいというように私は意訳をしている。

この中で、何よりも大切なのは「天は人も我も、同一に愛し給うゆえ我を愛する心を以って、人を愛するなり。」という言葉であると思います。

つい天の心を忘れて自分の感情に囚われてしまうと誰かを許すや自分を許さないなどと行き来してしまうことがあります。しかし本来は天の心、天と一体になった声で自分の真心を天に合わせれば、元々の自然の摂理である共生の法理に気づくことができます。

例えば、この世界は常に食べ食べられる関係というもので成り立っています。
いのちはそうやってお互いに役立てる事で、御互いのいのちを生かす必要があるからです。

自然はいのちの共生があってこそ、はじめて自然とも言えます。

自分が生きられるということは、大切ないのちをいただいているということ。それは何によってかと言えば、そのいのちを御互いに生かしあうということで成り立っているのです。そうやって助け合いながら生きていくこと、もともと万物一体の世界の中で生きさせていただくことなどは天の真心があってこそ存在しているのです。

この天の心は、私たち人の心とは一緒ではありません。
親の心子知らずではないですが、子どもは親を尊敬することではじめて親の心が分かります。

これは自然や天も同じく、自分勝手に傲慢に振る舞い、親孝行を失った心こそがその問題の根幹にあるとも言えるのです。自分を存在させてくれている何かに、どれだけ心から感謝しているか、その御恩にどれほど報いたいと思っているか、そういう心をみつめる時、はじめて天の心の一端を感じることができるのだと私は思います。

大事なことを忘れるとき、それは天の心を敬うことを忘れるときです。
そしてそれが道が廃れていくときだとも自然に思います。

子どものそばに自然を置くとは、子どもの傍に天を置くことを意味します。自分の使命をひしひしと感じています、子どもたちが永遠に天に愛され続けていることを伝えていくために自ら天の心と歩んでいこうと思います。

球で観る

先日、ある打ち合わせの中で「この世は平面で視るのではなく球体で観なければ分からない」という話が合った。

もともと私たち人間の目では、何でも二次元の平に見えてしまうものです。対立する物の見方というのもこの平面から起きる事です。多面的に視るといいという言葉もありますが、これは数々の平面をいくつかの方向から眺めることでそれを合わせれば次第に立体に見えてくるから本質に近づくということをいうのです。

平面で理解するということは実際はできず、それらは自分の創造力で補うのです。
紙面では分からないものが本質だからです。

本来、宇宙も地球もすべてのものは偉大な円の集合体でありそれは球体の重なりあった姿とも言えます。球体とは、様々な円でありその円がたくさん集まったものが球体であるのです。水面に落ちる雫も、すぐに球体の模様を描き消えていきますがあれもまた球体であることの証明なのです。

全部の物事を対立的に分けて考えるという発想は、そもそも球体ではないという偏った視野の捉え方なのです。ほとんどの人は、自分の感情や自我があるから自分から見える一方の方向からでしかこの世の中を見ようとしません。

三人寄れば文殊の知恵というのも、そもそも三人の眼があれば次第に立体になって観えてくることをいうからです。私のよく利用する言葉では一円観といった二宮尊徳が開発したすべてを円の中で透視するということではじめて物事の偏りの本質を理解することができるのです。

この一円観というものは、対立するものではなく円の中で物事を捉える方法のことです。
多面的に見るのでもなく、円、つまりは全部丸ごとにして観るのです。

この世が循環するのも、この世の縁が回り逢うのもすべては球体であるからなのです。
その球体が交わるとき、天の運行の中に自分が在ることを実感するのです。

そしてそういう球体の中にいる一部としての自分を感じているとき、次第に心も澄んでくるのだと思います。自らの心が澄むことで、より空間の妙を感じることができるのだと思います。

子ども達のことを見るときも、それは立体で球体で感じることだと思います。
全部丸ごとという感覚があってこその認めるであるのだと思うようになってきました。

子ども達のためにも、忙しくなり余裕をなくし一方的な眼だけで物事を裁く情報に流されないように日々に注意していきたいと思います。

また今日も自然の理法を学ぶご縁をいただきました。
子ども達のためにも見守りの中で譲れるものを転じていきたいと思います。

いのちの距離感

自立には距離感というものがある。

その人が自由に物事を解決するようになるには、ある一定の距離感がいるのです。

例えば、人は自我があれば自分の方へと引き寄せようとしたり相手をつけ放そうとしたりと両極端です。それぞれの自我が惹きあうと、御互いを尊重するのではなく共依存といった関係を生み出してしまいます。

そもそも太陽や月、水や土もそうですがすべては一定の距離感の中で調和します。
すべてのいのちは、そういう偉大な恩恵の元、自力、いわば「精魂」を出して生きています。

それを何か誰かが意図する人工的なものを使って無理やりに伸ばそうとしたり、そのものの自力を使わないでとなれば、そのものの生命力はあっという間に弱体化し何でも他人に頼らなければ生きてはいけないようになってしまうのです。

生命というものは、精魂を出すことではたらくことができそのことで周囲と調和します。
つまり自力で生きるものだけが、他を活かし、そして他力の恩恵を享受できるのです。

つまりは本来の自立とは、まず大前提として全部自分でやるのだという精を出し切る、遣り切る、生き切る、己が主人公であるという覚悟があっての話であるのです。その覚悟が恩の世界を開くことに繋がり、そこからはじめて自分が偉大な恩徳に包まれている絶対的な安心の境地を自覚し、周囲との最善で最幸の調和の距離感を創造していくことができるのだと思います。

そしてそのいのちの安心感ともいうべき信が自立というものです。

人間は誰かがその人のことを丸ごと信じる事が出来れば、その人は自分のことを信じる事ができるようになります。もしもその人を信じなければ、あれこれと自立を阻害し成長を止めてしまうこともあるのです。

いのちというものは、すべてにおいて自分から生きようとするときに輝くものです。
何でも与えてもらっていたら自分で手に入れようとは思わなくなります。
そして本当のことや、大切なことはすべて自分でしか手に入れることはできないのです。

距離感というものは如何に自他を信じるか、そして丸ごと尊重するかの境地です。

毎回、緊張感がある仕事ばかりですが自立する姿を観ると感動ばかりの日々です。

いのちの距離感をさらに深めていきたいと思います。

循環の源

二宮尊徳の教えの中に「入るのは出たものが返るということ、来るのは譲ったものが入ることである。」がある。

これは天地自然の道理であり、当たり前のことですがこれがおかしくなってくるから色々な間違いが発生してくるともいえます。

会社では、合成洗剤を使わず分解されるものを自然分解できる用い、発酵食品を食べ発酵しやすいものを取り入れ、また生活微生物を培養し共に暮らす中でそれをお風呂やトイレ、その他の場所で活かすことでより川に流すものに気を付けることにしています。

これも出すものが返るの道理に沿ったもので、子どものために何ができるかを考え抜いた会社の理念の実践の一つです。

人は自分が出すものに対してはあまり気にしていないものです、それは行動や言葉でもそうだし排泄するものやゴミなどもそう、すべては自分が出したものが廻り巡って自分へと戻ってくるのだからその人が何を出すか、何を出さないかは何よりも大切なことなのです。

モノを大切にする人のところに善いモノが集まってくるのも同じ道理で、その人のいのちを重んじる実践がその人へ戻ってきているとも言えるのです。善い出会いをする人は、善い出会いが戻ってきます、いつも一期一会に出会う人には一期一会が帰って来きているのです。

そしてもう一つの譲るというものですが、自分のものにせずにそれを多くの人たちに譲る事こそがまた来るということも道理なのです。私たちはどんなに微細なものから天命に至るまで、すべては何かから譲られて今があるのです。すべては借り物の今とも言え、全部自分が持っているものは何かによって譲られているからこそ持っていることができるのです。

そういう譲られているものを自分のものだけにせずに如何に多くの人たちに役立てて譲り渡していくかで、今自分のところに来ているものが何かを知るのだと私は思います。譲ってもいないものが来ることはありません、それは譲った人が譲っていないからかもしれませんがそれは時間軸の問題があるだけで他の人から帰って来るものだから必ず来るのです。

呼吸のように息を吐けば息が戻って来るように、必ず出ると入るは、譲ると来るはセットなのです。

だからこそ入る方ばかりに気をとられて肝心な出す方に力を入れないというのは、そもそも天地の道理に沿わないともいえるのだから如何なるものを自分が出しているか、どのようなものを譲っているかを大切にしていくことが重要だと私は思います。

子ども達のことも同じです。

自分たちが出したものが子ども達に帰って来るのです。自分たちが譲ったものが子ども達に戻って来るのです。自分の出すものや、自分から譲るものにどのような責任を持つか、それが大人の役割だと私は思っています。

理念を扱うのも、実践を重んじるのも、全てはこういう誠の心からの発心なのです。
子ども達のためにも、どのようなものを出すか譲るかを常に自戒していきたいと思います。

いのちのシンフォニー

料理を学んだ中で「死ぬ」という定義がある。

ある人は、おむすびを握るのにお米が呼吸できるようにと言い、またある人はスープをつくるのにスープが波打たないようにと言う。なぜなら、呼吸できないとおむすびが死ぬからであり、スープも波打って周囲の鍋の熱い部分に触れて蒸発してしまえば死ぬからであると思っている。

この死ぬというものは、相手が死んだから死ぬではなくすべてはこちらの姿勢、生きものやいのちに対する自分のことを言っている言葉であるのです。

例えば、パン作りでもそうだしどの料理でもそうですが食材は生きています。そこにはいのちが宿っているからです、そういうものをどれだけこちらが丁寧に丹誠を籠めて接するかでその料理が変わってしまうのです。

よく西洋式に料理を学ぶと、すぐに栄養学や分析、その作り方のテクニックや分量などに意識を奪われてしまいますがそこに大切な何かが欠けていることに気づくのです。

本来、私たちが食べているものは何なのでしょうか。

それは確かに生きもののいのちをいただいているのです。そのいのちは食べ物に限らず、誰かのお役にたつために様々なものに変化してこの世の中で生きているのです。どんなものにもいのちがあるのです。そしてそのいのちは、大切に扱われることでいのちを為します。

もしもそのものをいのちがないとこちらが接してしまうとき、それが死ぬときであるのです。

自分の都合で、ただの「モノ」として扱い大いなる一つの分化した「いのち」として接することがなくなればそれはいのちとして観ていない観えていないことになるのだから死ぬのです。

美味しい料理も、何かの手助けも自分の謙虚な姿勢、素直な真心、その生き方にいのちそのものが呼応して自分のいのちとシンクロしていくのです。そしてそのいのちは「響き合う」のです。

いのちのシンフォニーというのは、すべてに自分自身への姿勢にかかっています。
部分や目に見える派手さにかまけて、大切な音を聴けなければ響き合いも感じれませんね。

生きものたちが躍動し、いのちが響き合うあの清々しく穏やかで平和な音を心で一緒に奏でて活き活きと安らかな日々を味わっていようと思います。子ども達にも、この音は聴こえているのでしょうか、今を生きる大人の責任と使命を感じます。

人としての自然

身近なところで循環を学ぶことで、どのような生物が環境を用意して集まるのかを実験している。

動物や昆虫たちは、そもそも自然であるから自分の居心地の善いところに次第に集まってくる。逆に、自分の居心地の悪いところには自ら離れていくし近寄らないというようにそれぞれの棲家を分けているのです。

人間が思っているような生態系をいくら水槽のように用意しても、そこに居つくかどうかは相手次第であるのです。この相手次第であることが自然だからこそ、どのような生きものが寄りつくかはどのような環境を用意してどのように見守ることかにつながっています。

例えば、ある人は水や土を汚すような薬をまき人工的で機械的な環境を用意して操作しようとします。またある人は、丹誠を籠めて水や土を汚さないように手作りと手作業で自然を邪魔しないように丁寧に自然に合わせます。

それだけでも、環境を見守るその人の姿勢が異なることが分かります。
つまりは、環境とはどれだけ相手を信じるか、どれだけ丸ごとを信じるかによるのです。

信じないからすぐに信じないための対策をこうじていくというのが不自然であるのです。
リスクヘッジという言葉もありますが、対策は信じる仲間が誰かいればいいのです。
何でも組み合わの妙が働き、ゆえあってのものだから繋がっているのです。

そして生態系というものは、まず何を基本に集まるかといえば水、土、光といったものの組み合わせによってできています。そしてそれは常にあまり目では追わないようなところで行われている循環によって成り立つのです。

川に行けば、水が中心になって水生生物たちが多様性を維持しながら活動しています。また山に行けば土が中心になって山中生物たちが多様性を維持しながら活動し、それを様々な光を触媒にした微生物が環境を創造していくのです。

何でもそうですが、空気や風、水や土、光など偉大に重なり織り合う自然に畏敬を覚えます。

そして人としての自然は何かといえば、徳なのです。
組み合わせを融合し、それを感化していくことこそ自然環境を創造します。

都会だから自然ができないのではなく、人が自然ではなくならからとも言えるのです。
もう一度、人として何が自然か、考察していこうと思います。