「理」に生きる

ある時、閃いて「理」という字がどう成り立っているかに気づくことがあった。

もともとこの理という字は、「王」という字と「里」という字が組み合わさっている。
まず王という字は、一が上中下、その天地人の間に真っ直ぐ1が立っている。
そして里という字は、土の上に田が合わさっている。

どちらも、下から上に伸びる一直線で文字ができているのがよくわかる。

そう考えてみると、この理というものは、どれも実践を通じて自らが伸びた証として顕われるものであることがよく分かる。

真理も調理も、原理もすべてこの理というものは本来の自らの生のようにあるものを実践しそこから伸びて醸成されていくようにそれを得ていくという意味になるのであろうと思う。

言葉だけで分からないのは、どれもすべてはやっている中でしか理解しないようにできているからなのです。私の話すこともそうですが、師の話すこともそうですが、すべては実践していく中でそれを継続し積み上げていく中で自然に成長しそれが天地の道理と繋がったときはじめて腹にストンとおちるというように、それが根っこと繋がって実がなるのだと思います。

よくやってもいないのに頭でっかちに分かろうとする人がいたり、知識が豊富でなんとなく真理を分かった気になって、実際の実践を怠りそういうことだろうと素通りする人もいますがそれではこの「理」というものは解さないのだと思います。

常に現場に答えがあるのは、現場はそれをやっているからなのです。
常に頭でっかちの世界が答えがズレているのは、それはただ実践ではないところだからです。

現場というものは、この理に繋がっている場所です。

料理もそうですが、いくら何度も頭で分かっても実際はたくさんのものに出逢い、気づきを繰り返し集積し、本当にその素材そのものの素晴らしさに感動しなければそれも理解することがないように、これもやってからの世界なのです。

やる前から分かった気になろうとするのは、頭で何とかしようといった動かないことが前提になった消極的な行為で生き方にまでは反映されてこないのです。

常に理を悟るためにも、まずは実践する中で自らが気づき学び生長する方を優先していくことだと思います。これからも子ども達の見本足るべく、まずはこの理に生きようと思います。

信頼の実践

人と信頼関係を結ぶのにオープンさというものがある。

どこまで自分を隠さずに相手にさらけ出せるか、そういう自分の弱みとも言えるものまで周りを信頼してオープンにいるかというのは大切なことです。

例えば、弱音を吐いたりするのもそうですが自分ができないことを誰かに頼めたり、自分が苦手なことを他人に話せたりするのは、その組織風土や環境がオープンであるからとも言えるのです。

上司や部下との信頼関係もそうですが、部下は自分ができないことを遠慮なく上司に相談して上司から最適なアドバイスを戴くというものがあります。また上司も部下に、自分のありのままをさらけ出してその上で意見を求めるというものがあります。

つまりここでの関係というものは、御互いに深い信頼を置いているという意味なのです。

他人とうまく信頼関係を築けない人は、自分が信頼されていないことが前提で振る舞います。ですから、何かをすぐに隠そうとしたり遠慮をしたり、または自分のプライドやエゴをつい優先してしまい裸になることができないのです。

そうしているうちに、自分から信頼していないというメッセージを発信することになり、次第に周囲からの信頼が失われていくのです。何かの過失があったにせよ、それは事実なのだと受け容れてすぐに改善し、周囲から再び信頼されるような自分になっていこうとするのが誠意でありまたチームの一員としての力を引き出していくのです。

今のような全員リーダーのようになって多様な価値観に応じていく時代では、皆が如何にオープンな環境を意識しているかというのはチーム力にとって何よりも大切なのです。

これが例えば、自分が傷つきやすいや、自分がメンタルが弱い、自分がこうだ、自分がああだと、常に自分が自分がと自分のことばかりを先に考えるというのがもっとも自閉、つまりはクローズしてチームにならなくしていく理由になっていきます。

そうではなく、皆にどうか、皆に役に立てているか、皆を信頼しているか、周りのためになっているかと、自分を周囲に活かそう、自他を活かそうと自分が意識しているときは自開、つまりオープンなのです。私も、自分が周囲を明るくしているか、周囲を楽しませているか、周囲が自分の存在で元気になっているかというのは、いつも意識しています。

しかしすぐに自分が自分がと考える癖がある人は、どうしても周りと一緒に仕事ができません。
自己肯定感も、周囲との信頼関係の中で築かれていくものですから自分だけでは無理です。
そして人間は誰しも信頼関係がない人同士では絶対に善い仕事はできません。
信じ合うからこそ、不思議な力が発揮され不可能を可能にしていくのです。

だからこそ、自分がどうかではなく、自分から信頼していこう、自分からオープンにいよう、自分から自分の全部を開いていこう、「常に自分の方から」とすることが、他人からの信頼を得るための近道であろうと私は思います。

自分がと思うのはやっぱりプライドやエゴが残っているからで、それでは周囲を活かそうという発想にはなりません。周囲を活かすには、そういった自分のプライドやエゴを手放すことがいるのです。

自分の立場が不安で守ろうとばかりを気にして委縮するのではなく、相手のためになるかどうか、皆のためにもと勇気を出して取り組むこと、つまりはそういった利他の心で取り組んでいくことがそういうプライドやエゴを打開するコツなのでしょう。

信頼されれば安全ですし、信頼していれば安心です。

子ども達にも、あまり自分のことばかりを考えなくていいように、自分から皆のためにとやっていればどうせ最後には自分は観えてくるとし、まずは日々の思いやりと実践を高めていこうと思います。

自然の法則

自然界には様々な法則がある。

例えば、ある一定の種が増えすぎればそこに必ず天敵というようなものが現れて数が減少するというものもある。一つだけの種が大量に増えようとするとそれを抑制しようとするような法則である。

これは動植物に限らず菌の世界に至るまで、次々にそういうことは起こってくる。

人間でいえば、病気というものも不自然から生まれてくるものだし様々な災害もこの法則に添って起きてくるものです。

もともと一つの種だけである一定の場所に増えすぎるというのは、それだけで様々な弊害が生まれてくるのです。野生や自然の中では、多種多様な種が御互いに活かし合えるように食物連鎖の中で成り立っています。

そこでは強くなければ生きてはいけず、受け容れることができなければ成長できません。

自然界では、様々な種のものと渾然一体に存在しているのです。この様々な種が「渾然一体」というものも大切な自然の法則であろうと私は思います。

自然農に取り組む中で、最初は雑草とともに育てることで稲自身を強くさせるものだと思っていましたが最近ではそうではなくこれはもともと稲がそうだったと、いや自然がそうなのだというように思えるのです。

画一化されたものの中で一つの種だけで存在しようとするのは、もっとも自然の法則から外れてしまうのです。子ども達の置かれた環境も、また今の経済社会の在り方も、行政の管理方法もすべて自然の法則から外れていると言えるのです。

自然は絶妙なバランスでお互いを活かし合うものだから循環し持続するのです。
これを意図的に破壊すれば、人間がずっと色々と手を入れなければならなくなります。

それが人工的であるということ、つまりはお金を生み出しているもとになっているのです。

このやり方は、意図的に持続しない方向へと進めそのことを解決するために資金を投下し続けていく方法で、わざと問題を作り出しては仕事を増やしていくというもののために人間の智慧を使っていくのです。先日の原発もそうですが、わざと原発を作りそこに補助金をつけ雇用を創出し生きていけないようにし、それ自体を正当化しさらに資金と投下していくというような方法でやってきたから様々な問題が起きお金もかかり続けるのです。

昔から悪智慧が働くということは人間にはあるものですが、そういうものにも気づかないで知らないふりして暮らし続けていくというのも悲しいものです。自分自身から真実や本質に気づくため、自然の法則を学び直し、自然に照らして自分たちがどう生きるのか、どう働くのかは決められるはずなのですから。

世の中に自然の法則がある以上、どこに合わせていくかどうかを決めるのも自分です。決して今の社会を否定しているのではなく、これを転じてどのような素晴らしい社会にしていくかが私たちの今の責任と人の道であるのです。

子ども達に少しでも多くの自然の法則を伝えられるような創意工夫を実践していこうと思います。

 

まず理念から

そもそも人はその優先しているところで、何をしたいかが分かるものです。

それは国家もそうだし、何かの組織もそうだけれど、まず何を優先するかで大事にしていることが分かるのです。

ある国では、経済や国益を優先し国民の人権よりもそれを優先していることがあります。またある国では、権力者と言われる人たちの利益が国民の暮らしよりも優先されていることがあります。またある国では、国民一人一人の幸せを優先し平和な社会を築くためにと創意工夫して取り組むところもあるのです。

つまりその国々の理念がどうなっているのか、何を目指しているのか、何を優先しているかで自分たちの置かれた環境が変わっていくのです。

人は優先順位を決めていないと、気が付くとあっという間に流されてその優先されているものに合わせてしまいます。自分がどうしたいのか、その理念がどうかということを深めていなければ優先していることは相手任せになってしまうのです。

もちろん、全体が優先していることは何かの理由があってそうしているのですが本来、自分が全体を観て何を優先するかは自分自身できちんと定義し持つ必要があるのです。

生き方などもそうですが、何を大切にするか、そういうものを常に大事にしていること、そういうものが理念として常に不動の場所で優先順位を決めていくのです。

優先順位は、どちらかをやろうということではなく、そのどちらもやるけれどまずどちらから優先しておくかという意味になります。まずどちらが先かと思えば、自分が何をもっとも大切にしているかがわかるので所謂ブレナイ生き方ができているともいえます。

そしてそういうものは流されやすいのでやはり理念がしっかりしている必要があるのです。当たり前すぎて分からないことほど、当たり前をはっきりしていくことで、当たり前ではないということに気づけるものなのです。

常に自分が何を優先しているか、常にその理念から取り組むことを大事にしていこうと思います。

お役目

生命にはお役目というものがある。

これは動植物だけに限らず、虫たちや菌たち、または人間にとっても同じくそのお役目をそれぞれに果たしていこうとする。そしてそのいのちをまた次世代へと手渡し、自分の役目を終えていくのです。

季節が廻り、時代は変わり、すべてのいのちはそれぞれの役目を得ます。

与えられた環境で、生まれてきたその時々で、またそのものらしさのままに、それぞれの役目に生きているのです。人は役目を誰かに与えられていると思いがちですが、実際は役目は自分で果たそうとしているのです。

これはある人たちの人生でもわかりますが、時処位をシェアして生きているのだからそれぞれが主人公としての物語があるのです。

庭の寄せ植えでも、ある植物が伸びすぎるとある植物は抑え込まれてしまいます。そしてその時、伸びすぎた植物が主役の物語と、抑え込まれた植物の物語が同時に存在するのです。

つまりは生きものはすべて自分が主人公であるのです、だから主人公同士の物語を持っているのだから主体か受身かというものは本来はなく、それぞれが主体である者同士で成り立っている世の中であるともいえます。

だからこそ、役割やお役目というものがあるのです。

なんらかのお役目があるのだから、腐らずに一生懸命勤めさせてもらおう、何か意味があるのだから自分の役割を果たしていこうとすることではじめていのちのバトンタッチをしていくことができるのです。

すぐに受身か主体かという議論になりますが、どうも日本人は何でもさせられているや、しないといけないなどと主体で在るはずのものをいちいち受身で理解しようとつとめます。しかしお役目という考え方で観れば、どちらかが強くてなにかをさせられる関係ではなく、それぞれに担う主体としての自分と思えるはずなのです。

世の中はみんなで様々な役目を果たしていきます、決して無駄はないのです。
これからもいのちのバトンを渡していけるように、自分の天命に尽くしていこうと思います。

いのちの歓び

マクロビオティックの桜沢如一に「遊ばざるものは、食うべからず」がある。

如何に自分の人生を最幸のものにしていくか、その遊びというものの中に自分を忘れるほどの自分というものが存在しているか、そういう遊びの中にこそ生きる価値があるということであろうかとも感じます。

子ども達の遊びのように、何かに無我夢中になることは自然の恵みの中で謳歌しているあの鳥たちや昆虫たちと同じような環境下になるのです。

人は、全身全霊で自分を活かそうとしたときはじめて陰陽に中ります。
そこで人生そのものの姿としての全体性といった調和が生まれるのです。

現在、重ね煮に取り組む中で「人生の目的は、やりたいことをやってやってやり抜いて、堪能するほどやり抜き、自由で楽しい人生を生き、艶なる人に喜ばれること」という桜沢如一の言葉にまた出会います。

すべてを活かそうとする発想には、自分だけではなく他も、他だけではなく自分もすべてのものを活き活きとしていこうとする自分のいのち自体を輝かせていこうといった根源的な思想が必要なのです。

私たちは常にいのちをいただきながら、自分のいのちを延ばしています。限りある人生の中で私たちは食べて食べられ、そのいのちを繋いでいるのです。だとしたら、私たちはこのいのちに感謝してというのはどういう行動を言うのでしょうか。

それは私なら、一生懸命に全身全霊でこのいのちを活かす、生き切るということになると思っているのです。一度しかない人生、自分勝手に平均からの寿命を逆算してペース配分して生きるというのは果たしてこのいのちを最大限謳歌していると言えるでしょうか。

時間を惜しみ、今に生き切るというのは、いのちの有難みを動的に自覚しているとも言うのです。もちろん、静的にもゆったり過ごし、今に生き容れるのも同じくいのちの有難みを実感しているのです。

つまりは、私たちはいのちをいただきながらいのちを活かすということが大前提なのです。

私の中の無双原理は、いのちというものの理解に尽きます。
自然界にいる私たちはいつもいのちをトータルで捉えていく必要があるのです。

何よりも、この今、この瞬間の奇跡に重ねていくいのちの歓びを感じて学んでいきます。

 

生態系と居心地

水田の手入れをするために昨日から水を循環させている。

面白いことに環境が変わってくればあっという間にそこの生態系もすぐに入れ替わって、今までいなかった虫たちが発生し、様々な微生物もそこに棲みだしてきています。

似たような生き物たちが一緒に大移動している姿を見ていたら、自分たちの環境に合わせて自分たちから自然に近づいてくるように思います。

これは人間の世界でも同じく、自分に合ったところにその人は移動してそこに住むというのが一番気楽な生き方にもなっているようにも思います。

もともと菌の世界にも、発酵や腐敗とあるようにどの場所の方が居心地がいいかというものがあります。空気を好むものと空気を好まないもの、地上か地中かというようにそれぞれが活躍できる場所があります。

この菌世界もそうですが、自分たちが活躍できるところがまさに居心地の善さになるのです。

自分が何に活躍できるか、自分が何に貢献できるかを思うとき自分の得意分野というのを知る必要があります。自分が何に向いているかということです。これを一般的には職業や場所などを決めて、自分は営業向きだとか自分はスポーツ選手向きだとか、ヨーロッパがいいやアジアがいいなどといろいろと話す人もいますがこれは私の思う向いているかどうかとは違います。

私の思う向いているというものは、自分の存在がまわりを元気にできるとか、自分の存在が周囲の人を穏やかな気持ちにできるとか、自分の存在が周囲を癒せる環境を構成できるとか、「自分の存在そのものが自他に与える影響」のことを言うのです。

つまりは、自分が向いているかどうかは何かをすることではなく、自分の存在がどのように周りの環境に正しく順応しているかということを言うのです。

順応というのは、自分から環境に近づいていくとも言えば、環境が自分に近づいているともいえます。環境の変化に順応できるかということは、自分が環境にあわせて生態系の中に存在しうるということを意味するのです。

これはもともと生命が自他が住みやすい居心地の善い場所を求めているからです。

人も同じく心をオープンに自分自身の善さを周囲に発揮させていけば周囲も自然に自分に合うようにオープンになります。自然界では、もともとオープンなので菌の世界では日和見菌という名でどちらにでも変化できる菌というものが全体の8割を占めています。

今まで発酵していた場所でも、バランス次第であっという間に腐敗していくこともあるのです。

そう考えれば、人間の世界もトータルで観ればうまいこと棲み分けられたものです。
たくさんの水を循環させて居心地を善くし新たな生態系を見守っていきたいと思います。

自然との調和

発酵を学びながら食も楽しむというのは人生の豊かさを増やしていくものです。
今年になってから、自然の学び直しの一環に菌や発酵を身近に観察しています。

生活の中に様々な菌を取り込んでいくことは、如何に調和や協力の中に自分を置いて学んでいくことと似ています。そもそもこの発酵という言葉には、熟すという意味があったり、醸すという言葉にも、環境という意味があります。

人生というところに照らしてみても、トータルで考えれば熟して醸すということが大切なことのように、この菌たちの不思議なミニマムな世界が如何に偉大な境地にまで関係しているのかと感じるとそこに自然の持つ霊妙な調和を感じてしまいます。

菌では腐敗と発酵というものに分かれていますが、人間の社会でも同じように闇と光というように陰陽をはっきりと区別しています。もともと、この定義はとても曖昧でとある国では腐敗したものを食べていたり、ある国では一切食べないというものもあります。

これは人間の好みだけではなく、それをその人たちとの風土や関係性によるのです。

この腐敗と発酵という関係は表裏一体になっています。

例えば、現在実践している自然農では畑には周囲の雑草を刈り緑肥として上にかぶせます。すると次第にその草が腐敗し土壌が発酵をはじめます。すると様々な虫たちがその下で暮らし始めて、さらなる発酵循環を繰り返していくのです。そしてそこには、腐敗もまた発酵であり、発酵もまた腐敗であるのです。

つまりは、この発酵も腐敗も実は同じものであり自然の調和ということになるのです。

私たちは、自然の調和の中で如何にそれを自分たちの生活に取り込むかで自分たちの在り方を常に確認してきたのであろうとも思います。自然から離れれば離れる程に、この発酵や腐敗との世界とは無縁になってきます。

最近の食品では、防腐剤といって腐らせないものを用いまた調和を制御し、イーストなども強引に発酵させるものを用いさらにまた調和を制御します。

天然酵母を育てたりしていく中で感じることは、私たちがどのように自然の調和の中での暮らす安心感を覚えるか、自然の一部であることの豊かさを味わうことを覚えるのです。

腐敗も発酵も自然であり、そしてこれもまたかんながらの道に繋がっている一つです。
私たちが観ていた八百万の神々も、このミニマムの世界に自ら溶け込むことで顕現されます。

私にはとても懐かしく、そして心安らぎ穏やかに感じる瞬間です。
たくさんの天啓をいただき、後からついてくる真実と実感に天命を感じています。

この世界の調和を鑑みながら、とても小さな偉大な神々から学びこんでいこうと思います。

食養調和

ここ数日、発酵を使い料理をしていると様々なことに気づくことがある。

今まで使えないと思っていたものが使えるようになったり、今までアクだと思っていたものが旨みになったり、様々な材料を重ねあわせることで絶妙な甘みが出てきたりと、それは不思議な感覚がある。

もともと私たちが美味しいと思うものは、舌と五感を使って感じているものです。

それぞれに好き嫌いというものがあったとしても、私たちが本当に美味しいと思えるものにはある一定の法則のようなものがあるようにも思います。

それはちょうどバランスが整ったところ、その素材と自分との関係性、全体との調和というようなところにどのように創意工夫して中庸に合わせていくかというものです。

例えば、舌や胃袋、体で味わうものは、それぞれの持ち味を私たちの舌にあわせて引き出します。私たち人間がより食べやすいように取り込みやすいようにと工夫するのです。心で感じるところでは新鮮な旬やいのちをいただくことで私たちはそれを本能で取り入れ、また料理する人や関わる人々の真心や愛情をかけた時間を心で感じているのです。

トータルで考えてみたら、私たちは食物連鎖の中でいのちを成り立たせています。食べる食べられるという関係ではじめて私たちはいのちを繋いでいくことができているのです。当たり前ではありますが、食べるということはそういう自然の当たり前を思い出すことでもあるのです。

身土不二ではないですが、自分の身体がどのように成り立っているのか、自分のいのちがどのような繫がりの中で活かされているのか、目には観えないものを含めて私たちは大いなる循環の中に生きているとも言えるのです。循環から途絶えたところで食べていると、私たちの感覚も鈍ってきてどこに私たちが繋がっているのかが分からなくなったりもしてくるものです。

物が溢れ、繫がりが見えにくい今のような時代にはこのような当たり前の中の本来の自分の姿にあえて気づきを与えるような料理と思想が必要なのかもしれません。

調味料をたくさん加え、美味しく料理するのも必要かもしれませんがもともと私たちの暮らしの中でどのような自然を活かした料理があったか、素材を得て活かしたかというものの一つひとつのプロセスこそが、この当たり前のことに気づかせ、私たちの心身を調和させるものに繋がるのだと思います。

私たちの今の社会は油断をすると、すぐに周りから流入してくる様々な物流にバランスを壊してしまうものです。日々に生きていたら、気づかないところで正しくないことをしてしまって気づいたらまた改善するという日々です。自然を汚すような合成洗剤をはじめ、調味料、食品、その他、様々な人口加工物に溢れてそれが気が付くと身のまわりに迫ってくるからです。

だからこそ、食べるということは全部自分で管理できるものなのだから食べるところから生き方を見直すというのは本当に大切なことだと思います。

私自身、自然食養、自然料理というものも新たに取り入れて学び直していこうと思います。

変化のコツ

知識や技術は自分のものにすることではじめて実用可能な財産となっていきます。

いくら知っていても、分かっていても、ただ見てちょっとやっていっても、それが具体的な生活の一部になったり、自分の生き方と一体とならなければそれは真に学んだとは言いません。

よくちょっとかじってそれをさもわかった気になっている人がいますが、これは私もよく注意していることでそれは分かっただけで自分のものになったのではないとし、常に基本を維持するために何を継続するか、何に取り組む実践をするのかを決めています。

先日の発酵研修でもそうですが、料理の作り方や技術、考え方などは言葉で聴けて学べたとしても、その大前提とした生き方がどれだけ自分のものとして持ち帰ったかはその持ち帰った量とそれを持続している分だけが決意の量だと言えるのです。

人は様々ですぐに決心をして自分を変える人がいますが逆にいつまでも決心せずに流され続けている人もいます。

いくら決めましたといっても同じことに戻るのはよく自分に甘いからとか、自分が逃げているからなどと言い訳もありますが、本来の理由はそうではないと私は思います。それは単に自分を信頼することができない、だから怖くて勇気がない、自分が不信だと言っているのだと思います。決めたとなってもいつまでの決まらないときは、本心からの自分を信じる事が出来ていないと思って間違いないのです。

もしも変わると決めたなら、その後に行うのは失敗を恐れずに取り組む勇気です。そしてそのとき、決めたときの心をどれだけ自分自身が大切にできているかが関わってくるのです。自分に正直に、自分の大切にしたいと思っている側の自分の味方をしてあげるのか、自分自身が本当に望んでいることを信じてあげてそれを手伝ってあげるのか。

その際に、自分自身が先に分かった気になったことや、今までの刷り込みの知識などが邪魔して動けないのを思い切って捨ててでも新たな今の自分を信じてあげるという思いやりが必要になるのです。

そして思いやりをもったあと、本当の自分に正直にやりたいことをしていればそのうち怖くはなくなってくるのです。自分のやりたいことが、全体の貢献になるのなら別に誰かへの遠慮などいらない必ず自分のお役目を果たすと腹を据えてやっていればいいだけなのです。

そのようにまず何よりも自他への貢献を一生懸命に実践すること、そしてそれを続ける事、そしてそれを自分の人生でのお役目、つまりは天命にすること。そうしていれば、自分への信頼の積み上げと、いつでも変化を受け容れられる勇気を発し続ける事が出来るのです。

具体的にはどうすればいいかといえば、何でも「先手必勝!先手必勝!」と、自分を鼓舞し決めたことを後に延ばさず、考えるまでの時間をかけず瞬時に心で感じたことを頭に流されないうちにすぐに取り組むことこそが変化のための最大のコツであろうと思います。

何でも思ったら即行動、感じたらすぐに決断、気づいたらすぐに改善、常に勇気が滾々と湧き出しやすい「今、ここ」にいのちが輝いている状態の心で日々を大切にしていきたいと思います。