自然を信じるということは、目に見えるものばかりを信じないということでもある。
自然農を続けながら思うことは、自分の中にある刷り込みにどのように自らで気づけるかというものがある。今までに汚いものや、嫌なもの、よくないものといった誰かによって与えられている知識が邪魔をしてもともとの自然よりもその変化を捉える力は落ちています。
例えば、水質や土壌が変化するときその生態系も様々なプロセスを経て自然の状態に近づきます。ここでの自然とは、その環境下での生態系、つまりは全部が平均ではなくその場所に合わせてその場所にもっとも順応したものへと変化を遂げるのです。
当然、田舎の手つかずの山間部の場所で発生する生態系と、都会化されて周囲に生き物があまり住んでいないところの生態系とは同じにはなりません。それはその場所にあったものが自然に集まってくるのであり、そこに合わないものは集まってこないとも言えるのです。
一般的に、言われる最適な環境というものが発生しないからと不安になることではなくそのうち自然になるだろうと自然を信じる力が問われるのです。この自然というのは何もしないことを自然というわけではなく、自然であることを信じるということの連続であるということなのです。
よく私も自然に任せて、自然に応じて、自然体でいることを大事にしますがこれはすべてにおいてそこに「信」を入れることに他なりません。絶対的なほどに、来たものを受け取るということ、起きたことを受け容れるということ、その姿勢がはじまりでありそこから学ぶことに意味があるのです。
よく学びを優先せずに結果を焦ってしまえば、どこかで刷り込まれた平均の理想や、そうでなければならないという先入観から自然というものが分からなくなってしまい、人間の頭で人工的に全部やろうとし欲に呑まれてしまったりもするものです。
何かをやり直すことであったり、もう一度はじめから学び直すなどといったとき、結果から考えればやることがいっぱいあり忙しいのにまたかと一般的にはメンドクサイや嫌な気持ちになったりするものです。
しかしそれは単に学んでいなかったから学び直し、そしてやっていなかったからやり直しが必用ということなのです。新しい目標を設定したり、理想が高くなれば当然、そこに対してのやり直しや学び直しは必然的に発生するのです。
常に自然は、学びとセットで成り立ちます。
そうやって私たちの先祖は、大切なことはすべて自然をお手本に学び続けてきて智慧を授かったとも言えるのではないでしょうか。人智というものは、自然があってはじめて成り立つ恵みであるのです。
やり直しというのは、「まだ学ぶことがあった」、学び直しは、「まだ学ぶものがあった」ということでそれは本来はまだまだ教えてくださっていると素直に感謝してもう一度、空っぽにしてから丸ごと受けさせていただきますという自分の姿勢が大事なのです。
自然であるということは、心を澄ませて自然であることに任せようとした心であるのです。
自らの信で、様々な自然に溶け込んでいこうと思います。