西郷隆盛に「敬天愛人」がある。
そこには、「道は天地自然の物にして、人はこれを行うものなれば天を敬するを目的とす。天を敬い人を愛し、天を知り、己を尽くし、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ねるべし。」とある。
そもそも私たちが生きている世界は天地自然と共にあるからして、自分が生きるということであればそれを包み込んでくださっている天そのものを敬い続ける事こそが道の実践そのものであるという意味になる。そして、続けてその天を敬うような心のままに人を愛し、その天の心を学びながら自分自身を正しく生き、誰かのせいにしないでただ自分の真心が天と通じていないのではないかと確認しつづけなさいというように私は意訳をしている。
この中で、何よりも大切なのは「天は人も我も、同一に愛し給うゆえ我を愛する心を以って、人を愛するなり。」という言葉であると思います。
つい天の心を忘れて自分の感情に囚われてしまうと誰かを許すや自分を許さないなどと行き来してしまうことがあります。しかし本来は天の心、天と一体になった声で自分の真心を天に合わせれば、元々の自然の摂理である共生の法理に気づくことができます。
例えば、この世界は常に食べ食べられる関係というもので成り立っています。
いのちはそうやってお互いに役立てる事で、御互いのいのちを生かす必要があるからです。
自然はいのちの共生があってこそ、はじめて自然とも言えます。
自分が生きられるということは、大切ないのちをいただいているということ。それは何によってかと言えば、そのいのちを御互いに生かしあうということで成り立っているのです。そうやって助け合いながら生きていくこと、もともと万物一体の世界の中で生きさせていただくことなどは天の真心があってこそ存在しているのです。
この天の心は、私たち人の心とは一緒ではありません。
親の心子知らずではないですが、子どもは親を尊敬することではじめて親の心が分かります。
これは自然や天も同じく、自分勝手に傲慢に振る舞い、親孝行を失った心こそがその問題の根幹にあるとも言えるのです。自分を存在させてくれている何かに、どれだけ心から感謝しているか、その御恩にどれほど報いたいと思っているか、そういう心をみつめる時、はじめて天の心の一端を感じることができるのだと私は思います。
大事なことを忘れるとき、それは天の心を敬うことを忘れるときです。
そしてそれが道が廃れていくときだとも自然に思います。
子どものそばに自然を置くとは、子どもの傍に天を置くことを意味します。自分の使命をひしひしと感じています、子どもたちが永遠に天に愛され続けていることを伝えていくために自ら天の心と歩んでいこうと思います。