言葉を磨く

言葉というものは、使う人によってその定義が異なります。

実際に実践しながらそこで感じている言葉と知識として頭で咀嚼したものとは異なるように言葉の意味も用い方も人により個々に異なっているともいいます。

なのでブログでもそうですが、確かにそういうものの観方をしてみるとそうかもしれないと思えるほどにしかここでは書くということはできないのだと思います。

ダーウィンが一生かけてミミズの研究をして気づいた進化や変化というものと世の中の一般的に使われている進化と変化というものは異なるはずです。一生かけて真摯にミミズの観察を実体験を通した中で得た気づきというものは、そこには積み重ねられた言葉にその密度があるからです。

つまり言葉というものは、その人の人生体験の質量、集積密度によって語っている言葉が同じ音であっても単語であってもその中身はまったく異なって飛び交っているということになるのです。

以上のことからもこの言葉というものは、文字でも書けるし喋りもできますが通じていないということもあるのです。つまりは同レベルの体験同士でしか語り合うことができないともいえ、仲間や同志はだからこそ共にいることで体験の気づきを分かち合うことができ幸せなのです。

この通じないという関係をどう通じ合うかというのは、一般的には共通理解を時間をかけて理解しあっていく必要があるようにも思います。しかし時間がスピーディに流れていくなかで、そういう理解を深める時間が取れなければ通じ合わない話を何時間も続けてしまうようなことにもなりかねないのです。

言葉というものは、その定義している価値によってその意味が異なるからこそ一緒に同時に実践を行う中で通じ合っていくようにも思います。

人が言葉だけでは伝わらないと感じるときは、共に体験をしたいと思う時なのです。言葉というものを正しく理解するには、立場が違っても同じように感じる力を伸ばすことが大切なことであろうと思います。

だからこそ言葉には力があり、人々がその言葉を聴いてそうなりたいと思うかどうかはその言葉を使う人の実践、つまりは生き方が左右するのだと思うのです。

今は共感力とでも言いますが、言葉は頭で認識するのではなく、心で感じるものなのです。

当たり前のことかもしれませんが、なぜこういうことを書いたのだろうや、なぜこういう言葉を使うのだろう、なぜこの話を選ぶのだろうと、相手に心を通じているときにこそ本当の言葉が伝わってくるのだと思えます。

言葉に触れることで、人はその人の観ている世界に憧れることもあります。
私もそうですが、私も憧れる人がいてその人たちの語る言葉にいつも心が感動し痺れます。

いつの日か、そういう言葉の世界を自らの世界に創造できる日がくるのを楽しみに、もっと素直に他人の言葉も丁寧に聴き、自分の使っている言葉も同じように素直に丁寧に語れるように、言葉を磨き感性を高め、日々に学び直していきたいと思います。

有難うございました。

時間の使い方

時間の使い方というものがある。

同じように過ごす中でも、時間をどのように活かしているかで人生は決まるとも言っていい。
どんなにつまらないような日々であれ、その人の気づく量によっては最幸の時間になる。

つまりは時間というものの中に、その人の生き方や生きざまが見え隠れしているのです。

時間が一般的にすぐに過ぎてしまう人は、人生の結果に対する執着が少ないとも言えます。
ただやることに意味があるわけではなく、それがどんな結果かを味わうことが大事なのです。
体験したことが何だったかを知ることは、自分がどのように生きているかを味わえるからです。

そしてそういった好奇心というものは、人生の行為そのものにあるのではなく人生の目標に対するものだからです。

どのような結果になるだろうとワクワクドキドキするのは本来から自生している好奇心とも言えるのです。それなのに結果かを目指さずにワクワクしようとしてもそれでは真の今を実感できなくなるので舌先で味わうだけになってしまいます。

もちろんそれも生き方なのですが、楽しいにもアドレナリンが出るような楽しみと、心が豊かに幸せを味わっているときの楽しみと異なるように常にどこで味わうかはその人の楽しみ方とも言えるのです。

時間の使い方も同じく、その使い方は他人によって異なるのだとも思います。一つひとつのことを味わい尽くすためには、一つひとつの全てに結果を求めていく必要があると私は思います。

よく私は一石二鳥や造語で一石五鳥などと自分はよくいいながら実践しますが、これは一つの時間を沢山の結果を出せるように使おうとするからです。例えば、それが自分だけではなく、友人のため、家族のため、仲間のため、お客様のため、社会のため、世界のため、未来のため、子どものためと、数えられるだけの全ての人達に善いかどうかを悩みきって行動するからそうなっていくのです。

それは別に皆が単に善くなればいいと思っているのではなく、そのどれも結果を出そうとしているからとも言え、その結果に対する諦めの悪さではないかとも自己分析しています。

自分の人生を体験し尽くしたい、自分が納得のいくようにしたいと思えば思うほどに日々に気づきたいと思うからではないでしょうか。

時間をどう使うのかは自由ですが、やはり最善の結果を求めて道を歩んでいくのが素晴らしい人生ではないでしょうか。

意味は後でついてくるのだからまずは結果を求めて体験を優先することだと私は思います。
時間は有限、しかし求めれば時間は無限であるようにも思います。

日々を充実して豊かに生きていく実践を通じて子どもたちを見守りたいと思います。

思い出の日々

思い出は色褪せないという言葉がある。

この色褪せないものというのは、いつまでも不変な真実の記憶であるということです。
そしてその真実の記憶というものが、心の記憶というものだと思います。

心というものは、目には見えないけれど確かに何かの出来事と同時に動いています。頭で認識する世界とは別に、心というものは別のところで通じ合っているように思います。頭でいくらコントロールしてみても、 心は隠せず心はすべてを認識しているとも言えるのです。

しかしこの心というものは眼には見えないところで感じているので言葉になりません。
ただ涙が出たり、体が震えたり、全身が痺れたりといった感動で気づくのです。

子どもは、素直に正直であるから出来事をそのままに感じて動きます。そこに作意はなく、悲しい時は悲しい、嬉しい時は嬉しい、寂しい時は寂しいとそのままにいるのです、それを我慢しないのです。みんなからどう見られるかを気にしながら反応しているわけではないのです。

大人になってくると、心で感じたことを頭で組み立てて表現したりもします。それに今に感じるよりも後先を考えや周囲との関係性でスイッチを使い分けたりもします。つまりは頭と心がバラバラになるようにそういう自分の日々の生き方そのものが、様々なところで素直になれない理由にもなってきたりもするのです。

だからといって、そのまま子どものように表現すればいいということではありません。自分の心を感じて正直にしていることが自分を大切にしていることにもなるのです。

一番身近な自分を一番身近な自分が抑え込んでいては、誰かがその人を大事にしてくれているとしても自分がそれをあるがままに受け容れることはできません。如何に周囲に心を開くかは、自分から素直な感性にあるがままに感動していくことであるのです。

どんな小さなことにも感動できるのは、頭で考える前に心が感じているままに相手を信頼しているからです。他人から傷つけられることは確かに怖いことでもありますが、それ以上に他人から信頼されることや大切にされることは代えがたい素敵な思い出のワンシーンを演出するのです。

心は丸ごと認められていると信頼するとき、もっとも素直にむき出しになるのだと思います。そしてそのむき出した心が感じたことが、もっとも色褪せない思い出になっていくのでしょう。

自分の心に正直に、感動し続ける思い出多い日々を楽しみたいと思います。

 

我がふり直す

ここ数日、色々と政治関連のニュースがにぎわっている。

国民の声が届いていないと声を荒げているような動きもでているけれど、理念なき国家運営というものはいつの時代も偏ったものになるのであろうと思います。

人数が多い方や、力が強い方、権力がある方の意見ばかりを取り入れて、少数の意見や、力の弱い方、一般的な国民の意見を無視すれば必ず世の中は不平不満に傾倒するのです。

画一的に何かを行おうとすることは、常に何かの力関係が発生していることを感じます。明治以降、私たちが参考にした国家のカタチは王道政治と言えるものだったのでしょうか。

もともと私たち大和の民は倫理道徳に長けていて、和して同ぜずというようにそれぞれに自主自立の精神で思いやり暮らしていたことを物語った歴史が文献にも多分に残っています。

数々の困難を繰り返す中で、最終的には常に和合し、助け合い、認め合い、許しあいながら、それぞれの生活を分け合い活きてきたように思います。そこには神道といった暮らしの智慧も、また武士道といった道の規範からも感じ取ることができます。

それを西洋式の国家運営を優先してから、善か悪かとなり道の概念も廃れていきました。

中庸といった政治の要諦は孔子にあるように仁の心を問われます。
それはテレビで眺めているような今の時代の政治家が行うようなものでは決してありません。

社会全体がどうやったら善くなるかは、単に経済効率だけを捉えてはままならないのです。
会社もそうですが、如何に人々が聖人のように思いやりと真心の社会を築けるか。
そのような見守りが生まれるように政治を取り組んでいく必要があるのだと思います。

それは理念というべきものを明確にし、それを実践することだと思います。

マニフェストそのものに対する姿勢を観ていると、優先しているものが何かはすぐに見え隠れしています。誰かが納得するものを優先するのではなく、そもそもどのような理念で何を行うかを明示し、それを実践しながらでなければ誰も納得していかないのです。

今の時代がどのようであるのかは、歴史から考察できます。
批判することは容易いことですが、自らの実践を鑑みてより一層学んでいきたいと思います。

子どもに譲ること

昨日は九州の農園での草刈りと大豆の種まきなどを行った。

もともと休耕田といって、自然のままに放置していた土地をもう一度復興させようと昨冬から下準備をコツコツと続けてようやく種を蒔くところまで訪れました。

ひとつひとつの作業は、自然を相手にするのだから相当な心技体の疲労が生まれます。
仕事柄、集中力はある方だと思っていても自然の前ではそれも通用しないようです。

一日外で過ごすだけで、日、風、土、水、空気、音、種々のいのちの活動の場に身をおくことで物凄い変化の波にさらされているともいえます。特に、短い時間で何かをやろうとすればその分が身体に圧し掛かり大変な体力を消耗するのです。

自然を活かすという考え方はこちらの都合を優先しないともいえますが、そうはいっても天候をよくみながらコツコツと進めていくことが大切なのでしょう。無理をするということは不自然なことであり、無理がきくというのは正直ではないとも言えるからです。

子どもはみんな正直で、無理をしようとはせず自然なところで素直なままです。
自分のそういう感性もまた経験を繰り返す中で磨かれていることと思います。

なぜ突然、自然農をと友人から尋ねられました。私は子ども第一主義の理念からやっているだけといつも回答しますが、私がとても楽しそうにしているから本業はどうなっているのと心配してくれているようです。

説明が難しいので二宮尊徳の言葉を借りることにします。

「鳥獣にはまちがっても譲の心が生ずることはない。これが人類と畜類の区別なのだ。田畑は一年耕さなければ荒地となるが、荒地は百年たっても自然と田畑になることはない。人道は自然ではなく、作為のものだから、人道は作ることにつとめるのを善とし、作ったものを破るのを悪とするのだ。何ごとも自然にまかせれば、みんなすたれる。これをすたれぬようにつとめるのが人道だ。たとい人と生まれても、譲りの道を知らなかったり、知っていてもつとめなかったりでは、安堵の地を得られないのは鳥獣と同じことだ。だから人たるものは知恵はなくとも、力は弱くとも、今年のものは来年に譲り、子孫に譲り、他人に譲るという道をよく心得て、よく実行すれば、必ず成功すること疑いない。そのうえにまた恩に報いるという心掛けがある。これも心得て、どうしてもつとめねばばらぬ道なのだ。 」

譲るということがどういうことか、子どもに関わる仕事をしている以上、働き方や生き方というものは必ず実践していなければならぬ理念の道だと私は思っているのです。

子どもを育てるということは、大人たちがちゃんと正しき実践を積み譲るということであるのです。それを机上の空論ではなく、自らの背中で示すことが何よりの「譲」であろうかと私は思います。

直接的な子育てと、間接的な子育てというものがあるとして直接的には父母だとしても間接的には偉大な見守りの中で実現しているともいえるはずです。

私は見守るということの真意を実践を通して伝え導く生き方を決めているから当然なのです。
もちろん理屈ではなく、楽しい、好きであるから実感する境地で持続していくのでしょう。

しっかり体験を昇華していきたいと思います。

素直とは何か

子どもの頃には感性というものがむき出しになっていてありのままに物事は観えていました。
しかし大人になるにつれ、知識が豊富になり感性もまた鈍ってくるように思います。

もともと子どもは素直な感性のままでいるから実相を正しく感じ取っています。
生まれたての赤ちゃんでさえ、誰も何も教えていないのにそれができるのです。

どんなものを観てもあるがままに受け取ることができるのです。
そこには先入観のないもっとも自然な状態、素直なままの姿があるように感じます。

私たち大人は素直を理解しているので素直とは何かとすぐに考えます。
この時点で素直というものは分からなくなるのだと私は思います。

自然に溶け込むとき、自分が自然と渾然一体になった感覚に入ります。

それはまるで頭で考えることもない虚無の中にいるかのようです。
あの感覚こそが素直になるという実感はありますが言葉ではどうも伝えられません。

それでも言葉にすれば素直というものは感性や感覚になっているときのように思うのです。

子どもたちはきっとそういう直観というものをみんな持っています。
子ども達を理解するには、やはり自分の感性や感覚を磨くことでしょう。

それはありとあらゆるものに感動し体験し気づき学ぶことで実現するのです。
これからも子どもや自然から素直に感性を学んでいきたいと思います。

自分を信じ貫くということ

昨日、九州の農園の草刈りなどを行った。

他の田畑と違って様々な雑草が自由に生えている中で野菜などを育てることになり周囲の農家の方々もどうなることかと関心を寄せてくださっているようです。

今の時代の農業のカタチからすれば、私のお借りしている農園は草だらけで農機も入らない悪田畑であるようで、声をかけて下さる方々は一様にもっと良い場所があるのになぜこんなところでやるのかと質問してこられます。

私にとっては居心地が善い場所でも、一般的な大多数の方々にはそのような良い場所に見えないというのは今の会社経営と同じような感じで違和感がなく、かえって自分のやっていることは何かを常に自覚し認識することに役立っています。

しかし何でもそうですが、他人と違うということやそのやり方では間違っていると言われることに人はだいたい負けてしまって自分を貫くことを途中でやめてしまうのだと思います。

例えばこの自然農でもそうですが、周囲は親切心から「ちゃんと田畑は耕して起こさないとダメ」とか「農薬なしでは無理、昨年は薬なしで虫にやられて全滅したよ」とか、他にも「ここはカラスとイノシシが入ってくるから収穫は期待できない」とか、色々と言われます。

それは実は親切心から失敗しても傷つかないようにと心配して配慮し仰っているのですが、それを不安に感じる心があるのはまだ自分の中の本心や覚悟を定めていないからでもあるのです。私の場合は、もともとが他の人と農を行う定義が異なるため、以上のようなことが起きる事もすべて担保にいれて気づき学び楽しむと決めているのであまり言われても気になりません。

これは実は人生でも経営でも、周囲の心配に不安になるのはまだまだ自分に自信がないからとも言えるのです。そこでの自信とは、自分が納得しているのだからこれでいいと思う信念のことでもあるのです。

逆説的ですがその人が不安があるから他人はそこを語るように思います。
自分が不安でなければ気にならないことであるから対話したことすら覚えていないからです。

もちろん全部が不安でないと楽観視するのではなく、待っていたら必ず信じたようになるという自らが納得いく姿のままの生き方を信じぬくということが重要なのだと思います。

どんなことがあったにせよ素直な心で融通無碍に楽しんでいけるよう気づきと学びを優先し自らの魂を磨いていくことが精進であるのだと思います。

最後に自然の声に耳を澄ませて観照していくことではじめて日々の気づきや学びとの出会いが充実していくのだと思います。

自ら自然界の信の間合いに入っていこうと思います。

気づくということ

人は誰かに教えてもらった知識と、もともと教えてもらわなくてももっていた知識がある。

前者は、学校や本で得たものでそれを気づいたわけではなく暗記したようなものです。しかし後者は、気づいたことを自分なりに求め学び納得して得ていくものです。

つまり、自らで気づいていないのに教わるものと、自ら気づいたものを教わるのでは全く異なる知識であるということを言うのです。

これと同じくして子どもの発達も同じく、誰かによって教えられたから発達するわけではないのです。発達とは、自らが主体的に気づくことで学ぶことをすることで獲得していくともいうのです。

孟子の故事「助長」(公孫丑上篇)があります。

宋の国のある百姓が苗を植えたが、この苗がなかなか伸びないで困っていた。どうしたら早く伸びるだろうかと悩んだあげく、そうだ手で伸ばせばいいと思いました。そこで苗を一本ずつ引っこ抜いて伸してやった。一本ずつ根気よく引っこ抜いて伸すのだからそれは大変な仕事でした。百姓はへとへとに疲れて家へ戻ってくると言いました。 「今日は疲れた、苗があんまり小せいもんで、苗の伸びるのを助けてきたよ。」 これを聴いた子どもたちが驚き、すぐに田へ行ってみたところ、苗はもう全部枯れてしまっていた。

「馬鹿な話だが、世の中には苗を助長する。苗を助けて伸すような余計なことをするものが少なくない。もっともはじめから気を養うことは無益だとして捨ておくものもあるが、これは苗を植えながら草ひきもしないで放っておくもので、苗は十分生長できない。さればといって、気を養うべきものだと知って、この生長を助長するのは苗が早く伸びないからといって、苗を助長する、これは苗を無理やりに伸すのと同じなのだ。少しも益がないばかりか、その物を根本から害してしまうものだ。」

という話です、そしてそこからこの助長という言葉が生まれました。

もともと気づくという行為は、そのものが生来もっている気を養うというものです。
そして学ぶというのものが、そのものが周囲の環境から生きる力を獲得するということです。

自然界でも、周囲の気候を感じながら自ずから気づき感じて生命を発揮するものです。
そしてそれを気づくことで生きようとすること、そして体験を通じて学ぶということを行います。

この気づくと学ぶという行為があってはじめて人の同じく健やかに生長するとも言えるのです。

しかしこの孟子の助長の話のように、気づいていないものを無理やりに伸ばそうとしては何かの知識を先に教えこんでいるようになっていないでしょうか。 また逆に最初から気づこうともせずに誰かに教えてもらうことが前提で自らの生きる力を喪失させてしまっている人もいないでしょうか。

自ら気づく前に先に知識を教える教わるということは、学びにならないことを意味し、それがすなわち自分の生長を阻害していることになっているのです。

自分から伸びようとする素直な力は、自分から素直に気づこうとする力のことです。

私は発達を学ぶ中でそれは生長の気づきを喚起するために環境を用意して見守る必要があると今では確信しています。「天は自ら伸びようとするものを助ける」という言葉もあるように、まずは自らが気づき伸びようとするまでじっくりと信じて待つ必要があるのです。

これを待てないのは早く引き伸ばそうというものと同じであるのです。
特に人工的に育成されたエスカレーター式教育の刷り込みはなかな取れないものです。

しかしそれでも、自然の環境を用意して見守っていくしかその気を発掘することはできません。

人事を尽くしてという人事は、浩然の気を養うこと、つまりは気づきを集積することに他なりません。気づくことにより深く気づき尽くしていくことで、後は天にお任せして命を待つとき偉大な他力や信が入ってくるということなのでしょう。

目には見えないことばかりですが焦らずに、丁寧に受け取らせていただきたいと思います。

今も気づくことの先にある天機を学んでいます。

 

自己改革

可視化というものに、見せ方が変わるというものと、そもそものものの観方が変わるというものがある。

前者は単に、今の自分やその存在の見せ方が少し変わっただけで本質的に何かを変えたのではなく変わった気になっただけでそれは自己変革したわけではない。しかし後者は、自分自身が変わることで自分だけではなく周囲にまで変化を及ぼすほどに変わるのであり自己改革ができたといってもいい。

つまり同じ行為であっても、変わるというのは周りから見て変わったように見せるという行為と、自分自身が変わってしまうという行為があるのです。

自分を変えたいと思っていても、まさか自分の価値観や自分の観方まで変えてしまおうとはほとんどの人は思っていません。一般的に人は、自分を変えようと努力しますが今までの既成のものか周囲と比べてといったように外部の状況と違っていることを変わったと勘違いするのです。

しかし実際はそんなものは変わったのではなく、見せ方がちょっと変わっただけだったり周りと比べて違ってみえただけで、何も変わってはいません。

変わるというのは、本来は、変わることで明らかに自分が変わり、周囲の人たちが変わり、組織も変わり、世の中も変わるというように、自分以外の全てがみんな変わってしまうときにはじめて「変わった」と言っていいのです。自分の周囲の人が何も変わらないのに、自分が変わったと思い込むのはおかしいのです。

私の実践でも、自分が変わることで家族も社員も友人も取引先もすべて変わってしまうのです。自分のパートナーともいうべき人たちが変わるのは、自分自身が変わるから顕われるのであってそれは自己変革を求めているから様々なものを引き寄せ出会いが訪れるのです。

自分が変わる前にすぐに人は楽をしてまず相手や周囲を先に変えようとしてしまうものです。

これは言い換えれば、自分の価値観は変えないままに相手の価値観を変えようとするのです、それが楽ちんだからです。

人の人生は眼には見えませんが、その人その人の価値観の人生をその人が勝手に生きているともいえます。どのような生き方か人生かは、その人の価値観が決めてしまっているのです。

具体的には自分が変わるというのは、今まで通用した自分用のルールを丸ごと別のものに変えてしまうことをいいます。自分の観方が変わるほどのルールを新しく適用するのです。そうすることで今まで適用させていたルールを、新しいルールを引き直すことで変えるのです。

頭で考えてもそのルールは変わることはありません。

そのルールが変わるのはやはり実践して、自らの戒律を新たにするからこそ変わるのです。
その時の苦しいと思えるのは、自分の価値観が思ったように変わらないからです。

しかしルールさえ定めたらあとは思い切って自分の憧れる価値観で生きたいと念じ、後は好奇心と遊び心を持って勇気を出して取り組んでいくことだと思います。人は好きなことをするとき、あまり以前の価値観に囚われなくなるものです。

好きにはいろいろあって、子どもが好きという好きがあります。
好きなもののためにまずは自らの自己改革を楽しんでいきたいと思います。

実践は素直

何かの教えというものは本来、それを自らで実践することで教わったことになるのです。

情報過多の時代は、情報だけは沢山さきに入ってきますがそれをやったかといえばそうではありません。脳はそれをやったかのように認識することはできますが、実際にはそれを実践しないのだからやったことにはならないのです。

例えば、この世の中には法則というものもあります。

その法則は、自然であること、生きものとしての私たちのいのちの特性など普遍的なものが存在していることの証でもあるのです。

しかしそういうものからいくらズレていると教えても、その教えを実践しないのでは自分がズレてしまっていることをも修正することはできないのです。

そもそもズレているから生き方が定まらず、生き方を正しく定めるからズレないということにもなりますがその生き方を決めるというものは実践するかどうかを決めるというのと同じなのです。

決めるという行為は、覚悟という意味でもあり、覚悟というものは実践するということです。

ひとつひとつの実践を行うかどうかは、自分の行動にかかっているのであり、それは物の観方を正しくして取り組むということに他なりません。

例えば真心というものでも、頭でこれくらいは心を籠めているからなどや、今までの経験で自分なりにはここまでやったのだからなどではなく、素直に心から感じたままや正直に謙虚に思ったままに行動できるということが本来の真心であるのです。

手間暇かけることや、相手に心を開いていること、信頼して手伝うことなどもすべては実践という素直な行いであるのだと思います。

教えてもらうことや教わることは本来は素直になってはじめてできることです。
実践を行うというのは、教わる姿勢が素直になったままだということでもあるのです。

人は皆わが師の境地というのは、教わる姿勢が実践からブレナイときの言葉なのでしょう。

まだまだ頭で理解することが多い日々ですが、正しい観方をできるよう日々に新たに素直の実践に取り組んでいこうと思います。