新生不変の技術

時というものに気づいたことがある。

そもそも時間というものは、自分の脳が認識している世界であり実際はその時間を忘れてしまえば今は今というものになる。

例えば、年齢などもそうだけれど今が36歳という認識の自分がいると思い込んでいるだけで実際は年齢というものは存在していない。自分が体験してきた量が年齢というのであればまだ分かるけれどその歳だからどうだこうだというのは何かを基準にして自分を認識するだけだからです。

グリニッジで時間を決め、世界中は同じ時間という刷り込みの中で生きています。
もしもこの時間というものを取り除けば、時間というものはないのです。

ただ今在るだけということになりますが、人は寝ぼけたりモルヒネなどを打てばすぐに自分が何歳であるのかを忘れることができます。幼児に戻ったとか、今に戻ったとか、その記憶や記録の状態を認識することで自分というものを創りあげているのです。

自分の認識というもののズレというものは、必ず起きるものでそれも刷り込みによるのです。2年前の自分がこうだったからと今はきっとこうなるはずだと思い込んだりもします。しかし人の成長曲線は右肩上がりではなく、ただ今が在るというものに過ぎず体験の質量が変わるというだけであるのです。

年齢がいったからではなく、年月が経ったからこうなっているはずだではなく、単に体験の質量で歳が経ったというだけであるはずです。つまりは脳の中の計算で生きようとするから時間に刷り込まれるもので、ただ今を時間を気にせずに精一杯生きていれば今の自分に自然になっているともいえます。

言い換えれば、時が流れていると思い込んでいるからこそ時を遡るという毎日をどう過ごしていくかが歳をとらないコツなのではないかと私は思います。時を止めるとも時を超越するとも言ってもいいと思います。

つまりは、毎日が過ぎるということを逆手にとって毎日を思うということにするのです。

時という概念は、過ぎていくというものです。

時が過ぎていくということは実はなく、それは単に体験や経験がただ在るということが事実です。だから、その体験を毎日新しくしていくことは、新しい自分でいるということであり、この新しいというものが時間が過ぎ去ることを逆手に取り、時間という認識を無くすということになるのです。

理解が難しくなっていると思いますが、これは脳という心とは別の認識世界を私たちは共有して生きていることを意味しているから難しいだけで、心の世界、もともとの本心、自分というものはそういう時を超越して存在だけをするものであるとも言えます。

時を科学すれば、存在というものに気づきます。

この存在のままでいるということ、虚無の有を感じている世界に居るということが自分というものとの出会いの入り口なのでしょう。

最後に、ここから新生不変の技術と名付けた「ただ今=存在の自分」、それは時を思い出さないくらい同じことをいつも思い続けて生きること。つまりは簡単に言えば、時間を忘れるくらい夢中になればいいということでそれが今に一生懸命に思い続ける事、過ぎ去った過去を認識する暇もないくらいに朝起きたら過ぎ去ったことを気にせず常に新しい一日に全力ですることで時の刷り込みを超えられます。

変われなくて苦しんでいる人はみんな時に縛られてしまっている人がほとんどです。

人は何歳になっても永遠の若さを持てますし、それが一生青春を味わえるのでしょう。
認識の刷り込みを超えて、新しく生きる日々を創造し続けていこうと思います。

同化し和合する

同化というものがある。

様々なものに自分を合わせて一体になるという意味でとってもいい。

この同化というものは、相手と自分を分けない、何かと分けて考えない、つまりは最初から渾然一体として分かれていないと思うことを同化といってもいい。

私たち人間もそもそもは、宇宙全体の一部でありはじめから分かれた存在ではない。脳が、言葉で知識として対象物を認識し記録するためにいちいち何かを名づけたり、または自分を成り立たせるために役割を分けて思い込んだりとしいちいち分けているのだと思います。

何かをするのに、いちいち理由がいるのもそのためで大きくは生活の食べるや寝るというところから小さくは職種や業務の内容まで頭で理解して進めようとしてしまっているという不自然な矛盾が発生するのです。

そもそも私たちはすべての生命と同じく、全ての物質と同じく、全体の偉大な調和との同化の中で存在しているのは誰にも明白です。同じ水や光、空気や場やあらゆるものを共有して成り立たせているのが存在そのものであり、この繋がりの関係の中でただ在るというものであるとも言うのです。

ミミズであろうが、魚であろうが鳥であろうが、分けるまえの私たちは全ては一体で捉えていたはずでそういうものの中にいることが当たり前の自然であれば同化とも言うのです。

この同化ができたとき私たちは偉大な調和を生み出すこともでき、それが一体感を持った最幸の自然の状態、渾然一体とした柔軟性のあるチーム力を引き出すとも言えるのです。

例えば、私が発酵が今年のテーマにしているのは、共生が大震災後の最大のテーマであると直観したからです。この発酵とは何かと言えばいのちのバトンリレー、つまりは共生を生み出す自然の技術のことを言います。

その発酵の主役でもある菌たちは素晴らしい自然の先生と自然の教材であり、この発酵するということ学ぶことを通して私たちは同化や和合そのものの本質を学ぶことができるのです。なぜなら発酵は色々な無数の菌たちが如何に協力して共生の関係を構築してはじめてできる境地です。

共生を学ぶのに頭では理解しない、自然に体得しようとするからこそ発酵を食べるのです。

発酵の真の素晴らしさとは自分の役割を自他が分けたのではなく、自他同化し一緒に取り組んでいく中で自然に発酵することです。

この分けないで一緒にやることや、みんなで一体になって自分の役割を果たすことは、共に生き続けるということの大切な要素を帯びているのです。様々なものに自分を合わせることや、自分から共生に合わせていくこと、和合するということは、これは日本人が最も世界で評価される尊敬されている民族性の源です。

これは自然の生き方、かんながらの道の一つの極意であると確信しています。

これからも同化し和合する素晴らしさに感動する感性を磨き、目には見えないはたらき、自然のはたらきを学び、子ども達へ継承していきたいと思います。

ブレナイ経営

現場でコンサルティングをしている中で、「元に戻す」というものがある。

今までやっていたことがおかしいと分かっているのに、今までの方が安心だからと何も変えようとせずにいることで様々なことが次第におかしくなってくる。例えば、年齢でもそうだけれど20歳の時に合っていたことを35歳になっても合っていると思い込んでそのままのやり方で続けていると15年もたっているのだからその人は周囲から見ても環境から見ても同じ人ではない。

同じように、自分の過去に体験した成功にしがみ付いたり、いつまでも過去の自分を捨てられないと今の本当の自分に合わなくなるのです。そういうものを指摘してくださる事件や周囲の助言があったとき如何に謙虚に素直に聴くかということが重要なのです。

しかしほどんどの人は、今までのやり方が合っていると変えない方が安全だと盲目に信じてなかなか自分を変えようとはしません。そして変えようと思っても、元のやり方の方が安全で安心だと思い込んでいるから変わろうとしても変われないのです。

この仕事をしていると、「やっぱり保育を元に戻します」や「以前のやり方にします」などと途中で諦めて元のやり方に戻そうとします。それは単に決めた結果が訪れるのを「待てない」ということであり、言い換えれば新しく決めた今を信じる事が出来ない、新しい自分になることを途中で諦めますという意味でもあるのです。

ブレナイ経営というものは、私が意訳すると待てる経営ともいうのです。

それは待てるということが、信じるということになるからです。

そしてそれは単に待てばいいというものではなく、人事を尽くして天命を待つときの待つということでもあります。その待つというのは、過去の自分に囚われずに怠らずに決めたままの実践の今を真摯に精進する、今の自分に合うように必死に精を出して一生懸命に取り組むということ、日々を新たに真剣勝負を続けるということでもあるのです。

過去に囚われているから、過去の遺産にしがみ付くからいつまでも変わることがないのです。人は誰でも変わらない方が楽だからと次第に一生懸命に取り組むよりも、安易に小手先でやれる方へと流されてしまうものです。しかしそれでは、この今に必要なことは必然として受け取っていくことができなくなり今を生き切っていることにもならないのです。

同じことをしていたとしても、20歳で気づくことと50歳で気づくことは異なります。しかし怖いことに、変化をしなくなるというのは20歳に気づいたことで50歳を生きてしまうことなのです。 それは昨日気づいても、また翌日には気づき直すということをしないからそのように変化が止まるということです。

変化というのは、同じ日はありえないと思うことです。

そして同じ自分も絶対にいないと思うことなのです。ブレナイ経営とは、同じ経営は二度とないと思うことです。だからこそ、日々を全身全霊で生きるということ、人事を尽くして天命を待つといった信じる実践こそが大切なのです。

全てのいのちは、同じように見えて同じ成長をしません、それが進化とも変化とも言うものだからです、生まれてきて生きるというのは、今を真摯に生き切るということにほかならず、ブレナイ経営というのはそういう今を信じ切るということ、つまりは決めたことを最期まで遣り切る経営とも言うのです。

このブログもそうですが、日々は変化の連続ですから日々新たにしていくのです。

過去は過ぎ去ったものですから、今を生き切るためにいつも今の自分の変化を最大限活かしていくような実践を楽しみたいと思います。

偏りを愛する

子どもの頃、発達の偏りがあることで人と異なることは悪いことだという認識を持つようになる。自分が他の子どもと違うということ、それ自体はつらいことではないけれど何がつらいかと言えば理解してくれる人たちがいないという孤独感なのです。

特に学校に入るころからは、自分ができないことばかりが増えて先生から指導され周囲の友達から置いていかれないようにと必死に皆ができることを自分もできなければど半ば強迫観念のように自分を責めて無理をして追い立てていきます。

学校の行事や授業も、自分がどれだけ皆と同じくらいか、つまりは遅れないか鈍くないかを指摘され、違うということは悪いことだと思い込んでいきました。また厳しいことを言われるたびに深く傷つき焦りと不安から必死に勉強し何とかして早く時が過ぎ去るようにと願いつつも乗り切りながら胸をなでおろしたものです。

それが思春期になると、認めない周囲に対して怒りを覚えて自分を貫くことで自分を必死に守ろうとしその間も孤独感は続くのです。そして社会に出ても、如何に平均の中でいるか自分が変わり過ぎていてはダメかということを周りから次々に指摘され続け遂には自分を出さないようにと周囲の期待を演じるようにと身のまわりが囲われていきまた孤独を味わうのです。

そして自分らしさというものは、周囲の無理解の中で消えていくのです。
そしてそれがいつかは復讐心にもなったりし、さらに自らの孤立を深めていくのです。

偏りのある人たちのことをみんなで理解し合う社会ができるとき、それは今の社会がみんな違ってみんないいと思える豊かで平和な思いやりに満ちた社会に変わっていくのだと思います。偏りのある人たちがみんな無理をして、自分を押し殺していけば社会全体は結局は閉塞感が広がり多様性のない画一化されたものになるのです。

そのままでもいいと理解していくことは、自分もそのままでもいいと許していくことです。そしてそれが自他を認めて大切にしていくことだとも思います。それはその人の偏りというものを愛するということであり、尊重していくということでもあるのです。その人の得意を伸ばす、強みを活かすというのもそれは以上のような人という集団の本質を捉えた視点でみるからです。

幼いときから成長していく過程で、如何に皆に自分が活かせるようにしていくか、そして皆もその人の存在を重宝するか、つまりはお互いに無理をしないで自然にいられるかで共生の社会は開けていくのです。

無理に強がっていてもいつのかは我慢も限界が来るものです、今こそ全ての傷を丸ごと癒やす必要があるのです。偏りの大切さは集団を維持するために人類が大切にしてきた智慧そのもののはずです。

これからの子どもたちがあまり我慢しなくてもいいようにそのままの姿を認めていけるようなオープンな関係を築くためにもさらに深く本業で掘り下げていきたいと思います。

平和な社会のためにここを打開することに自ずから使命を感じています。

自分らしさ

自分が好きなことをやるや夢を叶えるというものに、周囲の理解というものがある。

如何にそれが世の中に貢献するものだと分かっていても、身近な人達から協力の理解を得られなければ実現することはないのです。

特に人は余裕がない時、あまり他人のことを思いやることがなくなってきます。やって当たり前ということになり、やらないのは力不足と判断されその人自身の環境や状況を理解しようとするのではなく一般論や自分の思い込みで相手に接してしまうことで不和が発生するのです。

御互いに配慮して気遣うというのは、御互いに大変な中で取り組んでいるのだということを前提に相手の立場でものごとを考えることができるか、つまりはどれだけ共感できているかとも言えるのです。

以前ブログでも書いたと思いますが、自分が忙しい人は周囲が楽をしているように感じているし、自分がゆとりがある人は周囲はとても忙しそうだと感じているのです。つまりはこれは常に自分の心の状態で周囲の理解を変えているともいえるのです。

自分が忙しくならないような工夫も、相手をいつも思いやれるという心の優しさや強さも、もっとも身近にいる理解者たちの協力があってこそ維持できるともいえるのです。

人は存在やその人の全てを丸ごと認めてくれる人がいることで、はじめて自分らしくいることに自信を持つことができるようになります。それは何かの状態や状況とは関係なく、その人の人格を認める周囲があってこそ成り立っているとも言えるのです。

自分らしく生きるという言葉は、あれは自分だけが自分らしくという意味ではありません。
自分らしく生きるとは、自分らしくいさせてくれる周囲との関係があってこその言葉です。

自分らしくさせていただける、自分らしくいてもいいと認めて下さっている、そう考えれば「自分らしさの傍には必ず理解者あり」という意味なのです。本来の自分でいるためにもいつも周囲に心を開いて自らがオープンに信頼する絆や縁を紡いでこその「自分らしさ」ではないでしょうか。

そこには常に「思いやる」という配慮が必要で、それが私が目指す「強く優しい人」なのです。
しっかりとビジョンに近づけるよう、実践を深めていこうと思います。

泥と土から

泥臭い仕事、地味な仕事が大切だというものがある。

泥臭いというのは、田んぼで言えば土が水を混ざり合ってドロドロに粘っているようなもので、地味というものは足元にあってなくてはならないというものというイメージがある。

つまりは大切な仕事は全部その基本は上記のような当たり前すぎるけれどもっとも生育に必要な条件が揃っているかが大切だということです。

若い時に、如何に泥臭い仕事をしたか、地味な仕事を集積したかでその後の仕事への姿勢、自らの心技体の能力が世の中に活かし発揮できるかどうかが決まるのです。

色々なコンサルティングの仕事をするにせよ、常に人が仕事の中心になるのだから感情的にも心情的にも、そして精神的にも肉体的にも総合的に重く組み合わさっていく中でどれも泥臭く地味なことができるかどうかで事の成否が決まるとも言えます。

派手な仕事というものは、すべては日頃の地味や泥臭いことの集積で成り立つのです。そして最期まで諦めないという仕事はすべてこの土がどのような状態かが左右するのです。

例えばヒアリングやコーチング、その他もそうですが粘り強く丁寧に、見えないところも一切手を抜かないで進めていくことがはじめて他人のお役に立てるとも言えます。

成長を見守るということも同じく、土壌がどのような状態であるかでそのものの生育の本性が発揮されるかどうかが分かります。ある植物や野菜、稲もそうですが土の状態が最終的には実になるかどうかを決めるとも言えるのです。

仕事で言えばよく新入社員がやらされているような御用番などはどんな仕事でもやりなさいといった地味で泥臭い作業、あまり仕事には見えないようなことをたくさんさせることを意味します。その他、経理や事務が行うような目立ちませんが必ず大切にしなければならないことをいいます。そういう仕事に喜びを感じたり、そういう仕事が楽しいと感じているならば将来大きく伸びる可能性があるとも言えるのです。

仕事の応用とは、全てにおいて基礎があってこそ可能なものです。若い時にどれだけ他人の嫌がるような泥臭い地味なことを積み上げたかで今の仕事が決まったともいえます。成長を望む場合は、あえて泥臭いことや地味なことを大切にすることが重要です。

自然農で土づくりをしていますが、泥臭いものはみんな嫌がるし足元の雑草の手入れなども嫌がる作業なのかもしれません。しかし私には、この作業こそが何よりも尊いもので、ここがすべての肝であるかのように感じています。

微生物の活性化もこの土と水、光と風と温度で決まります。

土づくりというのは、いのちの成長の基本、どこまで自分の土を創るのかはその人がどこまで伸びるのかを決める程に重要なのです。新人が雑用をするのは本気で大切に育てようと見守るからです。そしてベテランも雑用をするのは、それがより高度な雑用になるからです。

今の私が行う雑草の手入れも土づくりもすべてはコンサルティングを自然に学ぶのです。
常に土から入ってドロドロに塗れてそこから美しい華を咲かせていこうと思います。

暗黙知

人は頭で考える世界だけに住んでいるのではなく、感覚で獲得する世界にも住んでいる。

最近は複雑系の研究も進み、何かのことは全体や総合で捉えていくことで理解するということを分析されるようになってきた。簡単に1+1は2という答えではないということは明白で、それはそこには複雑怪奇に絡み合っている偉大なる他力が存在していることを理解するからです。

何かの出来事も、自分の周囲に起きることもすべて単純ではなくそれは計り知れない調和の中に在り、立体になったものがバランスよく混じりあって存在しているかのようです。

自分だけの主観で一方的に見てしまうのが脳だとして、それに対して主客一体となった全体調和の中で観得るのは全方向を捉えてくるのです。

なぜと考えるのも、途中からなぜと見つめるのと、湧き上がってくる根本からのなぜではその広さも深さも真実も変わってくるからです。つい頭で考えてしまうのは、感情なども邪魔をして自分都合で判断するのでしょうが自明ではないのだから意味の後付になるのでしょう。

そもそも暗黙知や形式知というものがあります。

形式知にすればするほどに、総合的な話は枝葉末節になってしまいます。
しかし暗黙知であれば、直観的に大極を伝えていくことができます。

その技術も多種多様で、昔は師弟一体、同時一体に行う方法から、手順や作法、基本を充実させることを伝えたものもあったのであろうと私は思います。大事なことはすべて肉眼では見えないのだからこそ、そういう境地で共有することで伝えてきたのだと思います。

今は科学技術も発展し、目には見えないものを観得るようになってはきました。
しかし大切なことはまだ目の届かないところにあるのです。

それは元々、追えないような場所にこそ真実があることが証明されているともいえます。
偉大な科学者がいくら真理を発見しても、それは全体の一部の可視化に他なりません。

可視化するということは、何を世に出すかということで何を世に見せるかなのです。
子どもたちのために正しく伝承していけるように心を念じていきたいと思います。

風を興す

何かの真似をするというものにも本質と異質のような違いがあります。

学ぶときには誰かの真似をすることはいいのですが、その真似をするにもその人の単なる真似かその人が求めたものの真似であるかは同じように見えて同じではないのです。

仕事の中でもそうですが、やり方や結果などは似せて伝える事も話すことは何度も繰り返し練習していけばかなり近づけていくことはできます。そしてある程度の結果も出すこともできるようになるのです。それは例えば営業の仕事でも、現場を共有し何度も話し方や伝え方、その他の方法をマスターしていけばある程度は自分のものになっていきます。

しかし、それも限界がありその時得たものでずっと維持していくことはできません。ステージを上げていく人たちは元々理想が高く、そのプロセスの過程で各分野の一流の仕事をマスターしていくからです。

人が真似をするとき単に知識をカバーすれば真似が完成して自分のものになるのではなく、その人が求めている理想の高さを真似するときだけはじめてその人に近づくことができるのです。

かの松尾芭蕉に「故人の求むるところを求む」があります。これは偉大な先人の志を如何に求めるか、そして「古人の跡を求めず個人のもとめたる所をもとめよ。」とあるのも、古人のカタチをなぞるのではなく自らの志を求めなさいと私は意訳しています。

これは自分自身が本気で理想を掲げて取り組むことの大切さを語るのです。

人は誰でも自ずからの真心から願うこと、自ずからあるがままに祈ることには敵いません。
本気で自分自身の心から発するように念じることこそが理想の実現になるのです。

与えられたものではなく、求めること、求めるだけではなく、自分から祈ること。日々の積み重ねの上に、理想の実現があるのだから子ども達のことを祈り歩む日々を確かめつつ、新しい風を興していこうと思います。

自然の造形

自然の造形物というものを観察していると様々なことに気づくことがある。

自然に造形され自然に分解されていく姿を視れば、もっとも恒久的に永続するように様々な仕組みが施されている。

例えば、石一つでも長い時間と大きな圧力の中で土が石になっていく。そしてその石が山野を駆け巡り海へ渡りまた土に還っていく。その他の動植物も、様々な形を創るけれどもそれがまた形をなくして土に還っていく。

自然の技術でもっとも自然であるのは土に還るということです。

それに比べて人工的なものは、自然には土に還らず何かの手を加えればまた手を加えて補わなければならず、大変な労力を繰り返しかけていくことになるのです。

今の時代は、一時的に目先の効果があればそれがさも最先端かのように語られ信仰されていますが実際は目新しい派手なものが良いものだという価値観を教え込まれただけで実際はその目先のものが数年から数十年経てば如何に効果が低い物だったのかを知るのです。

人工的に手を加えたものにいいものはありません。

昔から宗匠と言われるような一流どころは、如何に自然に近づけるかという技術を持っただけで自然を超えたことは一度もないからです。自然を超えることができないからこそ、自然を謙虚に見つめて自然から素直に学ぼうとすることが尊いのだという形を表現したのです。

自分たち人間が最高であるというところで生み出す科学や技術に本物は存在しません。
常に、私たちは自然の一部であることが絶対であるからなのです。

自然に近づくというのは、空や無のような存在を体得することです。
色々な学んだことをカラっぽにして問いただしていきたいと思います。

新商品の開発

先日、新商品の開発を兼ねて伊賀にて松尾芭蕉の生誕の地を訪問する機会があった。

以前、不易と流行のことで一度関心を持ったことがあったけれど改めて学び直すことができた。もともと人の世に身を置き人との絆や人とのご縁を感じていると、常と常ではないものを感じる機会が多くなるものです。

如何に温故知新し、真実を探求しようとするならば一つのところに留まれず常に自らを刷新し続ける必要があるともいえます。これは、私たちが変化の創造物であるからして常に周りと共に変わり続けていくからでもあるのです。

特に、世の中に新しい風を吹かせようとすれば必ず元となっているその真実を確立しなければなりません。芭蕉にも「不変の真理を知らなければ基礎が確立せず、変化を知らなければ新たな進展がない」とあるように、何を根源や根本にしているかができていなければ、そこから新しい発見も発明も起きないとも言えるのです。

今、新商品開発をしていますが常に不易と流行を往来し続けひとつひとつ編み出すのです。

世の中にあわせて世の中が求めそうなものを造りだして発信することは私の仕事ではありません。それはどこかよその人たちがすでにやっていますし、色々な人たちがいるのだからそれでいいのだとも思います。

しかし未来や子どもを思えば世の中に必要なものを確立しなければならず、それは無用の用ともいうべき絶対的になくてはならないものである必要があるのです。だから私はそれに自然を用いるのです。

そして、流行というものはそれを今の人たちが取り込めるように溶け込めるようにと変換置換し続けないと意味をなさないからこそそれを可視化して練り上げていく必要があるのです。

新しいものを創るということは、根源的なことを学ぶということです。
根源的なものを学ぶということは、新しいものとの出会うということなのです。

つまりは不易と流行は、自分自身を真摯に生きることで出逢う一期一会の産物とも言えるのです。常に、日々は変わり続け、この今も変わり続けることなのだから悟ることに意味はなく、常に自らの魂を磨き続ける日々と気づきを集積していく日々こそがいのちの本源なのだろうとも感じます。

もうすぐ、新商品が世にお目見えしますが精魂籠めて開発していきます。