何かの真似をするというものにも本質と異質のような違いがあります。
学ぶときには誰かの真似をすることはいいのですが、その真似をするにもその人の単なる真似かその人が求めたものの真似であるかは同じように見えて同じではないのです。
仕事の中でもそうですが、やり方や結果などは似せて伝える事も話すことは何度も繰り返し練習していけばかなり近づけていくことはできます。そしてある程度の結果も出すこともできるようになるのです。それは例えば営業の仕事でも、現場を共有し何度も話し方や伝え方、その他の方法をマスターしていけばある程度は自分のものになっていきます。
しかし、それも限界がありその時得たものでずっと維持していくことはできません。ステージを上げていく人たちは元々理想が高く、そのプロセスの過程で各分野の一流の仕事をマスターしていくからです。
人が真似をするとき単に知識をカバーすれば真似が完成して自分のものになるのではなく、その人が求めている理想の高さを真似するときだけはじめてその人に近づくことができるのです。
かの松尾芭蕉に「故人の求むるところを求む」があります。これは偉大な先人の志を如何に求めるか、そして「古人の跡を求めず個人のもとめたる所をもとめよ。」とあるのも、古人のカタチをなぞるのではなく自らの志を求めなさいと私は意訳しています。
これは自分自身が本気で理想を掲げて取り組むことの大切さを語るのです。
人は誰でも自ずからの真心から願うこと、自ずからあるがままに祈ることには敵いません。
本気で自分自身の心から発するように念じることこそが理想の実現になるのです。
与えられたものではなく、求めること、求めるだけではなく、自分から祈ること。日々の積み重ねの上に、理想の実現があるのだから子ども達のことを祈り歩む日々を確かめつつ、新しい風を興していこうと思います。