素直に思えばこの世の中はおかしなことに満ちています。
そのおかしなことに気づかないことで様々なおかしなことが起きていることに気づいている人は多くはありません。私たちが特に悩み混乱するのに、教わるというものがあります。朱子学や陽明学などではないですが、昔から知識が先に横行するようになると、同じような問題が発生しそのことから真実を解明していくような葛藤は何度も繰り返されるのです。
特に今の時代も同じく、様々な情報が先に行き渡りそれを体験する量が減っていくという現象が起きているのです。
何かの立派な経典みたいなものも、それは体験するうえでの指標のようなものの一つであり別にそれを記憶して暗記してそれをテクニックとして使うようなものではないのです。
学校でも今は先に答えを先生が用意して、生徒がそれを答えるという教え方をしていますがこれでは実際に人生で役立つことを学んでいるとはいえません。人が共に生きるということも、それは単に知識として教わってできるのではなく、それを実体験して自分のものにしたからできるのです。
そしてその実体験というものが、生きる力というのです。
生きる力を育むとしているのに、子どもに体験させないような教育というはおかしなものです。
先日もおかしなことに気づいたのですが、言葉というものを考えてみてもそうです。
人を深く愛するという言葉一つでも、どのようにすれば深く愛するのですかとは学校でも先生が言葉で具体的に教えることができます。例えば、相手の気持ちになってや、その人の身代わりにや、証明するような犠牲を払ってもなど、言い方なども多種多様に話をしますがそんなものは実際に自分が深く愛するような体験をしなければ分かるはずがないのです。
それを先に知ってしまうことで、何かメリットなどはあるのでしょうか。
脳で疑似体験したものにはその人の真実はありません。
自分の人生の中での愛というものは、それぞれにまったく異なるものだからです。 しかし今は誰もが愛といえば知っていることになるのです。ドラマやテレビの影響もあるのだと思いますが、先に知ってしまうのです。
この先に知るというのが答えを先に聴くというのと同じなのです。
その時点で自分にはできるやできないと判断してしまい、自分の思い込みで選択すると純粋にそれを実体験する機会を失ってしまうのです。答えを誰かが持っていると思えば人は間違っているのではないかと不安になるものです。
答えというものは、本当はないのです。
誰かの答えをなぞるように生きるのは、単にロボットや機械のように操作されて生きるようなものなのです。そういう教育に負けてしまっては、人と生きる幸せや人として感動して感激するような生々しい生身の自分を味わっていくことができなくなるからです。
今は、特に自分からそういう刷り込みに負けないような力を持っていなければなりません。
つまりは得た知識を常に自分から消去し続けるような実体験を積んでいくことが肝心です。
自ら恐れずに目標を定めて行動するとき、はじめて力がつき育つ歓びを知るのです。
育つということは、とても幸せなことでそこには感じて掴みとるという味わいがあります。
生きているという実感は脳みそだけでは得られず、それは心で感じるからなのです。
知識が心の出番を奪うような教育は、幸せを目指しているとは言わないのです。
自分から自主的に主体的に人生を生き切る人は、誰の意見もどのような答えもそれは冒険心を駆り立てるワクワクドキドキするような好奇心の一端にしかならないのですからどんどん積極的に心の赴くままに実体験を求めていくことだと思います。
誰も分からない世界は自分から掴み取る。
好奇心こそが、今の世の中を変革する大きな奇跡になると思います。
子ども達を信じます。