目には見えないもののなかに空気というものがあります。
私たち生き物は、その空気というものをなくしては生きていくことはできません。他にも水や土、光や風、また温度などもありますが、あまりにも共通している重要なことは改めて思うこともなく当たり前として存在しているのです。
しかしこの当たり前ということが、環境においては一番重要だったりするのです。
自然というものを学ぶとき、一番先に感じるものが空気です。
自然に近づけようとすると、たくさんの善い空気があるところで呼吸できるような環境を用意する処から始めます。それは鶏であろうが魚であろうが、そして微生物から植物や虫、動物にいたるすべてのいのちには空気が必用です。
私にとっての空気とは、多様な生物が呼吸する代謝が豊富であるところという定義にしています。なぜなら私たちの呼吸とは様々な生物の代謝によって存在しているからとも思えるからです。
たくさんのいのちが回り逢う中で、私たちすべてのいのちが共有しているものが空気です。
その空気とは、生きているということであり、生きているときに発した呼吸が積み重なって織り合って存在しているものであるからです。
例えばコンクリートの密閉された生きもののいないような無機質な中では、呼吸というものは行われません。そこに様々な多様な生物やいのちがめぐるなかではじめて呼吸による空気が生まれていくのだと私は思います。
それなのに、私たちは新鮮な空気とは単に外の空気だと思っているところがあります。
そうではなく、多様な生きものたちが呼吸している中であることが本来の空気であるのです。
それが自然界や外には縦横無尽に存在しているというだけで、人間が作った限られた密室空間の中では味わえないということなのだろうと思います。美味しい空気は、多様な生きものたちとの共存や共生の中ではじめて観得てくるのだと思います。
オゾン層の破壊などのことを考える前に、もっと多様な生きものたちが安心して暮らせる環境をどうしていくか、それは自分たちがいつまでも美味しい空気、豊かな空気、幸せを感じる空気を実感できるよう努めていくことだと私は思います。
そしてそれは人としての生き方に関係してきます。
自然な生き方や人間として徳の高い生き方をしている人の近くや傍の空気が心地よく感じられるのも、それはその人の生き方ともいえる代謝としての空気を味わっているからなのです。この目には見えない空気というものは、共に呼吸し合ういのちを互いに活かしあうのに多大な影響を与えているのです。
あまりにも絶対的な存在に目を向けること。
これからの時代は、そのことを私たちはもう一度温故知新し学んでいく必要があります。
自然に学ぶ基本を何にするか、かんながらの道は光が照らしてくださっています。
これからもまだまだ自然との邂逅を感じていきたいと思います。