好きな自分でいるために

日本の政治を歴史と照らしていると、どのような状況なのかというのは見て取れます。

どの時代も、理念や理想を掲げた実践を行うことを怠り嘘と嘘で成り立っている社会を構築すればそれはそれで成り立ってしまうのだろうと思います。

正直に誠実にやっている人からすれば、なぜ言行が一致しないのだろうかとすべては見透かせます。しかし政治の中心にいる人たちは、そもそも言行は一致しなくてもいいところに立脚してそれが御互いに当たり前になっているのだから虚偽同士なのだから問題ないのです。

マニフェストにしてもそうですし、制度もそうですがあれだけ話をしたのは何だったのかと思ってしまいます。例えば、6時に待ち合わせと約束しておきながら6時59分に待ち合わせ場所に来て6時代は死守できたからと言い訳しているようなものです。

こういうものが成り立つ関係というのは、御互いに時間にルーズな人たちだから成り立つのであって正直に6時に来ている人からすれば嘘をつく人と言われてしまうのです。

他にも正直に誠実に決めたことを守る人からすれば、何かにかこつけて言い訳ばかりする人のことはすべて虚偽に見えるのです。もともとその人が言い訳ばかりする仲間うちで生きてきたのであればそれはいいでしょうがそうではない人たちと生活すればそれは嘘つきのレッテルがすぐにはられるはずなのです。

学生時代にそういう人を信頼しないでもいいような友人たちと一緒に過ごしていたら、約束を破ろうが嘘をつこうが、盗人のように借りたものを返さなくてもそれでもその仲間たちは同じ穴のムジナなのだから自分が不徳の人同士だから自然にそれで成り立ってしまうし違和感もないのでしょう。

しかしもしも正直で誠実に生きている仲間の中にその人が入れば、すぐにその人はその仲間では成り立たなくなります。なぜなら時間は破る、嘘はつく、他人のものは平気で盗む、誰かのせいにする人になってしまうからなのです。

自分が生きている場所でその人の生き方というものが決まります。
そして自分が決めた生き方があるから次第に仲間が変わっていくとも言えるのです。

どの現場に自分の身を置くか、またどちらの自分が誇りに思えるか、やはり人は好きな自分でいたいと思うはずなのです。自分が不誠実で不徳である生き方が好きだという人はいないと思います、誰でも人を愛し愛されたいと思っているからです。

だからこそ、自分が好きでいられるように正直に誠実にいようと覚悟を決めて生きることが人生を変えていくということでもあるのだと思います。正直で誠実な真心の人達と接することは、一度しかない人生を最幸のパートナーとの出逢いに満ちています。

自分自身は実践を重んじ、常に理念に恥じないように誰のせいにもせず、何かの言い訳もしないように、常に正直な自分の方、真心の日々を貫いていきたいと思います。