人は誰かに教えてもらった知識と、もともと教えてもらわなくてももっていた知識がある。
前者は、学校や本で得たものでそれを気づいたわけではなく暗記したようなものです。しかし後者は、気づいたことを自分なりに求め学び納得して得ていくものです。
つまり、自らで気づいていないのに教わるものと、自ら気づいたものを教わるのでは全く異なる知識であるということを言うのです。
これと同じくして子どもの発達も同じく、誰かによって教えられたから発達するわけではないのです。発達とは、自らが主体的に気づくことで学ぶことをすることで獲得していくともいうのです。
孟子の故事「助長」(公孫丑上篇)があります。
宋の国のある百姓が苗を植えたが、この苗がなかなか伸びないで困っていた。どうしたら早く伸びるだろうかと悩んだあげく、そうだ手で伸ばせばいいと思いました。そこで苗を一本ずつ引っこ抜いて伸してやった。一本ずつ根気よく引っこ抜いて伸すのだからそれは大変な仕事でした。百姓はへとへとに疲れて家へ戻ってくると言いました。 「今日は疲れた、苗があんまり小せいもんで、苗の伸びるのを助けてきたよ。」 これを聴いた子どもたちが驚き、すぐに田へ行ってみたところ、苗はもう全部枯れてしまっていた。
「馬鹿な話だが、世の中には苗を助長する。苗を助けて伸すような余計なことをするものが少なくない。もっともはじめから気を養うことは無益だとして捨ておくものもあるが、これは苗を植えながら草ひきもしないで放っておくもので、苗は十分生長できない。さればといって、気を養うべきものだと知って、この生長を助長するのは苗が早く伸びないからといって、苗を助長する、これは苗を無理やりに伸すのと同じなのだ。少しも益がないばかりか、その物を根本から害してしまうものだ。」
という話です、そしてそこからこの助長という言葉が生まれました。
もともと気づくという行為は、そのものが生来もっている気を養うというものです。
そして学ぶというのものが、そのものが周囲の環境から生きる力を獲得するということです。
自然界でも、周囲の気候を感じながら自ずから気づき感じて生命を発揮するものです。
そしてそれを気づくことで生きようとすること、そして体験を通じて学ぶということを行います。
この気づくと学ぶという行為があってはじめて人の同じく健やかに生長するとも言えるのです。
しかしこの孟子の助長の話のように、気づいていないものを無理やりに伸ばそうとしては何かの知識を先に教えこんでいるようになっていないでしょうか。 また逆に最初から気づこうともせずに誰かに教えてもらうことが前提で自らの生きる力を喪失させてしまっている人もいないでしょうか。
自ら気づく前に先に知識を教える教わるということは、学びにならないことを意味し、それがすなわち自分の生長を阻害していることになっているのです。
自分から伸びようとする素直な力は、自分から素直に気づこうとする力のことです。
私は発達を学ぶ中でそれは生長の気づきを喚起するために環境を用意して見守る必要があると今では確信しています。「天は自ら伸びようとするものを助ける」という言葉もあるように、まずは自らが気づき伸びようとするまでじっくりと信じて待つ必要があるのです。
これを待てないのは早く引き伸ばそうというものと同じであるのです。
特に人工的に育成されたエスカレーター式教育の刷り込みはなかな取れないものです。
しかしそれでも、自然の環境を用意して見守っていくしかその気を発掘することはできません。
人事を尽くしてという人事は、浩然の気を養うこと、つまりは気づきを集積することに他なりません。気づくことにより深く気づき尽くしていくことで、後は天にお任せして命を待つとき偉大な他力や信が入ってくるということなのでしょう。
目には見えないことばかりですが焦らずに、丁寧に受け取らせていただきたいと思います。
今も気づくことの先にある天機を学んでいます。