関わりと繫がり

昨日、自然農の畑の大豆やトマトの状態などを観にいきました。

離れたところで作物を育てるというのは自分ができることは限られています。多くの人達の協力も必要ですが、自然農の場合はその作物の生きる力や主体に任せて応じて見守りながら育てていくのです。

環境を用意したら、どのようであるのかをそのものの状態を確認しながら共に生を歩みます。

いくつかの種は芽が出ますが、一斉に出るわけではなくそれぞれに自分のタイミングが分かっているかのようです。世間一般の農法を知っていると、進めていれば不安になる事ばかりですから自分の刷り込みにはよく気づけます。

それだけ世間で一般的に行われるものは、何かの変化があるとすぐに対応しないといけないものばかりです。子ども達の保育でもそうですが、発達を信じずに子どもの部分部分の様子に反応していろいろと口や手を出していたら育つものもそのうち育たなくなるのです。

しっかり見ているという自負心からか、手や口を出しているから愛していると勘違いしている人もいるようですがそれは単に自己満足である場合が多いのです。関わりの中に不信から入る人と、関わりの中に信から入る人があるのです。人は自分のことを信じるためにも、そのものの生きる力を丸ごと信じればその精魂が湧きたち自発的に取り組むのを自覚することができ次第に自他を見守ることができるようになります。

ここで定義している愛というものを整理してみます。

私の思う愛は繫がりのことで、どのようにそのものと繋がるのかという自分の心そのものの姿であろうと思います。

生きていればご縁がある人とない人がいるように、一度しかない人生で深く関われる人とそうではない人がいます。どちらにしても一期一会の繋がりではありますが、それを自分から大切にしたいと願って関わることは愛そのものではないかと思えるのです。

人に無関心になり、自分のことばかりを優先し、関わりを持とうとしない、繋がるのがメンドクサイと思っているのは自らが愛を求めていないともいうのではないかと思います。

如何に自分に都合が良いか悪かがあったとしても、そんなものに囚われずに自分からもっと主体的な人生を歩もう、多くの人もの環境と繋がっていこうと関心をしっかりと持てば愛は着いてくるのではないかと思えるのです。親子の愛着がと今は何かと家庭の問題を取りたてますがもっと沢山の一期一会やご縁と繋がりたいと願っていくことだと思うのです。

稲にしても大豆にしてもトマトにしても、その周囲の草草、虫たち、ミミズにいたるまで自分から関心を持って出会いに感動し繋がろうと試みているうちに次第に愛は芽生えていくるのです。

信じるということは、そういうものを愛する中で自然に身についてくるものだとも思えます。
愛が先か信が先かはわかりませんが、楽しいと思うときは関わりと繫がりの中に在ります。

私は何でも調べたり観察したり研究したり、近くに寄っていったり、遊びこんだりするのは全てに関わりと繫がりの中にある出会いを求めているからであるように思います。

自分から繋がろう信じようと行動することが楽しむということです。
もっと日々から当たり前を見直し、大切に、見守る学びや実践を深めていきたいと思います。

道しるべ

昨日はGTによる保育環境セミナーが無事に開催されました。

毎年多くの方々が、保育という道を志し、共に歩んでいこうとする姿には感動します。

多くの課題があっても、それを楽しむ人がいます。
それは同じように取り組んでいても、その考え方が異なるからとも言えるからです。

藤森代表からもあったのは、どうせ現実は何も変わらないのならばむしろ考え方をポジティブにすれば楽しむことができると冒頭にありました。

これは私もとても大切な生き方だと感じていて、自分が歩んでいる道を謙虚に鑑みればこんなに幸せなことに関わっていること、これだけ課題がいっぱいあるというオモシロイ人生であること、そして同じように志す仲間たちがいることに有難い気持ちが湧いてくるのです。

人は忙しいと視野狭窄になり、マイナス思考になっていきます。

それは目の前のやることに感情的な不安や恐怖、または課題が嫌だと感じるからです。そうやって嫌々ながら自分に与えられた試練や機会を避けているならば、何も楽しいことはないと悲観的になるものです。

しかしそういう時こそ、自分の生きる力、楽しもうと受け容れる力が実るチャンスなのです。

見守るということは、自分が自分を見守ることが大切なのではないかと私は思うのです。どんな境遇であっても、如何に自分が幸運であるか、そうやって自分を丸ごと信頼するのです。

今が楽しいのは、今までが楽しいからにほかなりません。
そしてそれは自分自身が決めた道を実践し、それを学び続けることができる歓びなのです。

安岡正篤氏の遺した「道縁無窮」という言葉を実感するばかりです。

師が指し示す道しるべを、友と共に歩んでいく。
論語で学んだことを実践する場に恵まれていることに道楽を覚えます。

日々に楽しみ味わって生きたいと思います。

自然との共生

先日、NHKスペシャルの「ヒューマン なぜ人間になれたのか?」を見ることができた。
かねてより色々な方から善い内容だったとお聞きしていたので楽しみにしていました。

話の流れは、人類の歩んできた軌跡を通じてどのように今に至るのかという一つの歴史の旅がテーマになっているようでした。様々な研究者や、作者の思想も織り込みながら私たちが信頼することや共生するということの気づきからその大切さを説いていました。

もともと人間は、覚えていないだけで数々の危機を乗り越えて今を生きているともいえます。

過去に学んだことから、私たちはどのようにしていくことが生き残る道であるのかを自覚したものなのでしょう。自然現象の中で、絶妙なバランスを維持しながら紡いできたいのちであるようにも思います。

気候が厳しい時には、厳しい中で一番大切なものが何かを考えてきました。
そして気候が緩やかな時は、緩やかな中で一番大切なものを考えているのです。

人間が人間であるのは、どんな状況下でも大切なものは何かを忘れないことだろうと私は思います。何万年も前のことをいまだに忘れないでいようとする心、これから数千年の未来のためにも今を生きていこうとする心、そういった心こそが偉大なのではないかと私は思うのです。

地球というものや自然というものを理解しようとしたということは、私には尊く感じます。

今、会社でも自然から学ぶ取り組みを増やしていますが今まで知らなかった大切な叡智に出会い、さらに自分がどうしていくことがもっとも自然体であるのかなどを自明するに至ります。

そう考えれば、私たちの素晴らしさは自然との共生にあるのではないかと思えるのです。

その自然との共生とは、別に自然を大切に自然を残すだけのことを言うのではありません。自然との共生とは、何が自然かに気づきその自然と渾然一体になっていくことを言うのです。

別に経済や今の文明社会、都市化したものを否定するのではなくすべてのものにはいのちがあると心の淵源にて気づき日々に自らが変わっていくことだと私は思うのです。

私の求めるかんながらの道でもそうですが、この世のあらゆる全てのものにいのちがあると気づき覚れれば自ずから自然との共生ということの本質を悟る事と思うからです。様々なものたちの中で、私たちは繋がり合って存在していることの尊さ、偉大さはあまりに自然な姿すぎて透明なセンスがなければ気づけないからなのでしょう。

もっと身近にある見えていない大切なものに気づく魂の感性を磨いていきたいと思います。
子どもの頃に感じたあの世界を思い出して自然との共生を楽しんでいきたいと思います。

遊び心

真面目(まじめ)というものと傾く(かぶく)というものがあります。

真面目というものをgoo辞書で調べれば、( うそやいいかげんなところがなく、真剣であること。本気であること。また、そのさま。 真心のあること。誠実であること。)と書かれています。また、傾くということを調べてみれば(かたむく。頭をかしげる。勝手な振る舞いをする。奇抜な身なりをする。)と書かれています。

人はもともと誠実であるから、何の疑いもせず今のこの世の中の仕組みの中で生きているともいいます。もともと生まれてきた世界が、今の目に映るものであったのならば最初からその中にいればそれを疑うということはしないものです。

しかしそのような常識を敢えて疑ってみてみると、実際は本当にそうだろうかという頭を傾けるようなことに数々出会います。

例えば、一度広い世界に出てみれば自分の国との違いから今までの自分の人生の価値観では常識だと思っていたことが一変して覆されるようなことに出会うこともあるのです。今までは当たり前と思って気づきもしなかったものは、実はそれは当たり前ではなかったと気づくようなものです。

これは別に目に見える世界だけに限ることではなく、心で観える世界にも通じる事です。

今までは当たり前だと思っていたことが実は当たり前ではなかったということにです。それに出会ったら人はどうなるのでしょうか。そうして出会い、気づいてしまったら、いくら元に戻ろうにも戻れない感覚になるのです。観えてしまうということでしょうが、目から鱗が取れるのです。

人は生きていて、何かに気づく人と気づかない人がいます。

それは本質を生きようとするのか、それとも長い物には巻かれた方がいいとあるのか、それはその人の自由の選択の中にあるのです。しかしもしもその当たり前がおかしなことになっていて苦しんでいる人がいたらどうするのでしょうか。

あまりにも真面目になっていようと囚われると、そういう当たり前に気づきにくいともいえます。

例えば、アメリカの人達が、痩せたいからとダイエットコーラを飲んで、健康だからとベジタブルバーガーを食べ、栄養素を確保したいからとサプリメントを大量に摂取し、疲れた体を癒すためにエステやジムに通う。

そういう話を聴いてとても不思議に感じる人はすぐに感じるものです。

もともと痩せたいのにダイエットコーラという発想自体が、バカなほど真面目に取り組んでいるときっとそうのようになるのだろうと思ったのです。本来、もともとどうであったか、本質とは何かがわかれば以上のような発想にはいきません。そこには既得権益として様々な業界の仕組みや政治制度が複雑に絡み合い、何がどうなっているのか分からなくなっているのです。

しかし真実というものは、気づける人には気づけて気づかない人は一生気づかないのです。

如何に自分たちの常識が非常識で、自分の常識がもっとも真実になるのか。
それは自らの刷り込みの脱却にこそあると私は思います。
そしてそれを東洋では中庸であるということだとも思えます。

今の時代は主軸をしっかりと持って多少は傾いていかないと世の中には伝わらないものです。
その主軸とは、思い込まないで決めつけないで素直にいることだと思えるのです。

今は青春のように楽しみに満ちていて、ワクワクドキドキがいっぱいです。

あまりバカ真面目にならないように、遊び心を大切に子どもと共に傾いていきたいと思います。

 

自信の本質

人が正直になれない理由としてプライドというものがある。

自分の中で自分というものを偽り、本来の自分のままであることを自分が防げば防ぐほどにプライドというものが出来上がってくる。

ありのままの自分との付き合いを誤魔化し、如何に自分というものをつくってきたか、つまりは今までどう生きてきたかというものが自分の言動を通して現れているともいいます。

自分がどのような人か、そういうものをそのまま出してもいいというのは自分から自らを認め、そして自らの周囲を認めていなければそういうことはできません。こう見られたいと思ったり、こう見られているはずだという歪んだままの自分像を持っていたら人と正直に語り合うこともできないのです。

素直な人は、別に人からどう思われようがあまり気にせずに自分のままでいることができます。それは自分自身が好きであるままでいられるような生き方、つまりは本心で生きているともいえるからです。

その本心で生きるというのは、偽らないままの自分でいるということでもあるのです。

感情を隠したり、見栄をはったり、取り繕ったりするのはまだ自信がないからです。
そして自信は自分を偽っているから身に着かないのです。

自信を持ちたいのであれば、さらけ出したりオープンにいることが一番です。
それでも好きでいてくれる周りがいて、それでも好きなままでいる自分がいる。

そういうものが自信というものかもしれません。
子どもたちが子どもたちのままでいられて、それでいて自信が持てる世界。

自然体を学ぶためには、もっと自分に正直がどのようなことであるかを実践していかなければなりません、バランスに気づき実践を通じて刷り込みを取り除いていきたいと思います。

心の養育

目というものは色々なものを思い込むものです。

以前、見た目と違う味を演出する料理をあるレストランで食べたことがあります。
こちらはトマトのスープだろうと飲んでいたら違和感があるのです。
それはトマトの色はしていましたが、全く別の野菜を使ったものでした。

何度も味わっているうちに何の野菜かが分かってきて、どの野菜か確認してからもう一度ためしてみるとはっきりとその味が分かるのです。この体験から、食べるというものは舌で味わっているわけではなく目で食べていることも知ったのです。

言い換えれば、目を介してイメージが食べているともいえるのです。

こういうことから 一般的に人は、イメージで何かを思い込んだり先入観で無意識に囚われていたりとしていることがほとんどそうではないかと知ったのです。

こうやって刷り込みの中にいるのなら、ほとんどのものを本当にどんな味なのかわかっていないままに過去のイメージで食べているかもしれませんし、本来は何が材料なのかを勘違いしていることもあるのではないかと思うのです。好き嫌いも子どもの頃に食べたままの味がずっと残っているから今になってもまだ食べられないというものもあるのです。

人は自分の経験から、記憶としてその情報をインプットします。それがまったく異なる真実を目のあたりにしてもそれが目には正しく映らないのはこのように過去のイメージを常に追って映しだしているからとも言えるのです。

昔の体験からきっとこうだろうとイメージしたものであるはずだと思い込もうとしているのです。

人は同じように食べものだけではなく、様々な人も見た目で判断していくものです。
今のその人がどうかを味わうのではなく、過去のイメージがどうだったかで見るのです。

これでは真実は捻じ曲げられ、その歪から様々に正直ではない事象に悩むことになります。だからこそ、そのものをそのままに見るということは自分が思い込まずに見る必要があります。

言い換えれば、過去のイメージを捨てるという行為がまず必用だということです。
昔の記憶で相手を見たり昔の事象を見るのでは、 今がどうかを気づけないということです。

この今に気づくことは、今の自分に気づくことでもあり、この今に気づくことでもあるのです。
今に生きるということは言うことは簡単ですが、実践は少し大変なことです。

それは刷り込みを取りつづけ、常に素直な心で本質や実相を観続ける心の養育だからです。
何を養い育てていくか、それはあるがままでいることを如何に大切にするかということです。
そのために人は常に考え続けることを止めずに、刷り込みに対峙していくのです。

子ども第一主義の本質を常に探求しつつ、今を大切に気づき学んでいきたいと思います。

体験の集積

体験を積んでいくというものがある。

この体験というものは、新しいことに挑戦し取り組む中で得られる叡智ともいっていい。
自分の実体験から気づいたことを積み上げていくことではじめて実力が備わってくる。

つまり実力というものは、体験の集積というものであるのです。

その体験をしていても、一向に成長しない人と日々に目まぐるしく成長する人がいます。
それは体験というものの本質を理解しているかどうかにもよるのです。

体験というものは、頭で考えて行うような仮想の世界で取り組んでいくことはありません。それに過去に体験したからと体験が頭に残っているものを知っているだけでいるだけでは体験を積んでいるとはいいません。このどれもが、体験というものはやったことがあることだと認識しているだけでこの今こそが体験になることが分からなくなってしまうのです。

本来の体験とは何でしょうか、それは日々に新しくなっていくことをどれだけ新鮮に気づくことができるか、つまりは全てのことが新しくなっていくような体験をしているかとも言います。

つまりは、どんなことでも自主的に自覚的に主体的に自分から全部遣ろうと、自ら体験を積んでいこうという姿勢で取り組まなければ新しいことに気づくことができなくなるのです。

もともと体験とは頭で考えるようなものではなく、全身で感じて動いて気づいて獲得するものだと私は思います。それは自分が体験をしよう、何でもやらせてもらってそこから気づこうとする自分が創りあげていくものの中にこそあるとも言えます。

自他を含めて、誰かの指示や命令に従うことでは新鮮な体験することはできません。
体験はそれを自分が遣ろうとするときはじめて心が入り新しいものができあがっていくのです。

古いものにいつまでもしがみ付いたり、カタチに囚われて取り組んだり、過去の自分の実績に依ろうとするのはまだまだ体験の尊さ、その本質にに気づいていない証拠でもあります。

今まで遣ったことがないことを行うことほどワクワクドキドキしていくことはありません。
やったことないことだからこそ考える前に行動することを決めるのです。

はじめて登る山だからこそ、登ってみてから考える。
これが私の生き方で、怖いならばもっと高い山を目指せばいいと思っています。

なぜなら体験が如何に尊いかを学ぶことが私は活きる事、活かす事と信じています。
そしてそれは理屈抜きでワクワクドキドキと子ども心に火が着きます。

どうなるか何なのか知らないことで、冒険心が湧いてくるのです。

怖いけれどやってみたい、不安だけど挑戦してみたい、そんなワクワクドキドキする新しいものができる方が、人生の面白さに気づけて心が躍動する機会を得られると私は感じています。

新しい人たちと仕事をすること、新しい仕事をすることは、過去の自分の掘り起しではありません。新しいというのは、常に体験を通じての発見の日々を楽しんで生きていくことだと思います。

長くなりましたが、この体験の集積とは、好奇心の集積であると私は思うのです。

さらなる自分に出会える発見の喜び、新しいことを一緒に取り組める楽しみは、人生を味わう上では格別なものです。

もっと気づきたい、もっと体験したいという向上心と好奇心を常に高めて新しい体験を積み重ねて澄ませていきたいと思います。

信の日々

人は目で見て脳で判断をしてしまう生き物です。

目は、様々な自分の判断を通して見て自分との関係を探っています。
昔から百聞は一見に如かずではないですが、目で確かめて疑いを解くのです。

しかし目で追いだすと、ずっと見ていないと不安になっているような心境に陥ります。
そして一度追いはじめれば自分の不安が募るその証拠を確認するようになってしまいます。

どんな小さな諸動作であっても、振る舞いも、表情も、自分がまず信じたいから確かめようと疑いから入っていればそれは疑いの答えを探してしまうからなのだと思います。そんな気がなくても、相手から疑われていてはその人は次第に周囲の目を気にするように変わっていくのです。

見てはいけないものを見るというのは、自分の中の迷いや不安を増大させていくのです。
この目で見るというのは、目だけで見るというのと、心を通してから観るのとは異なります。

信じるの反対は疑うではなく、信じるの反対は刷り込まれることだと私は思っています。
そして刷り込みとは、以上の話で言えば心を通すことができなくなることをいいます。

つまりは本来の自分自身のことが分からなくなるということでもあるのです。

あまりにも周囲を目で追えば、本来、観ているはずだった今の心が刷り込まれるのです。

自分自身にいつも素直になれば、人は今の心に映る天を観て、自らの道を感じながら穏やかな平安の中で日々を歩んでいくのだと思います。そしてその時、いつも自分が見守られていること、言い換えれば自分を絶対的に信じるということを感じるのです。

このかんながらの道も以上と等しく、自ら信じて歩んでいく道とも言い換えることもできます。
つまり活かされているという当然の事実を直観するのだと思うのです。

人は不安になるのは、目が刷り込まれるからです。

日々に刷り込まれないように生きることは信の実践とも言えますがこれは生涯続けていかなければ道から外れてしまうのです。心の実践ともいうのでしょうが、目に入ってもそれを別に追わなくてもいいのだと気づくことです。

先人たち、聖人たちはみんな自分の人生を、その道を「信」で遣り切ったからこそ刷り込みのない自分らしい人生を生き抜くことができたのではないかと私は思います。怖いと思うこともあったでしょうし、囚われてしまう日もあったでしょうが、それでも日々に信に取り組んだのです。

実践していくことは日々だと肝に銘じて、分かった気にならないように精進しようと思います。

至純の魂

自分とは何か、そういうものを考えずに生きている人はとても多い。

人は誰しも道を求めていれば、自分とは何かということには出会うものです。
しかしそのうち道に彷徨い、自分とは何かが分からなくなってしまうものです。

それでも自分とは何かと向き合う人は至純の人ともいえるのです。

自分が何者かを知りたいと追及していく人は、いつの日か天命に出会うのでしょう。
論語に、五十にして天命を知るとありましたが道を歩むことの大切さを実感します。

向き合うということは、自分とは何かを知る道筋でもあります。
みんな誰しも、向き合うことは嫌なことです。

このままでもいいではないかと思えば確かにそうで、だからなあなあとしているのです。
これは相手の個性や実力、能力に関係せず、誰しもが等しく同じく苦しいものです。

だからこそ向き合うということはとても孤独な作業であるのだと思います。しかしそこに友がいる、同志がいる、師がいるとこの道がとても豊かで楽しいものになるのは本当に出会いの邂逅が不思議であることを証明しています。

人は、「みんなで歩めば怖くない」ではないですがきっと自分の道を求めている人たちと歩むことを志す仲間と共にすれば自分らしくでいいのだと自然に己を信じることができるのだとも私は思います。

しかしだからといって向き合っているのは自分自身ですからどんなに現実が受け容れ難いものであっても、どんなに現実が都合が良い物であっても、自分自身が実践を通じて常に問い続けていかなければならないのです。

これをやり遂げたいという至純の夢、それは自分に向き合いたいということではないでしょうか、本来の自分とは何かに気づきたいのではないでしょうか。

誠実に生きていれば、いつかは刷り込みが取れ真実の誠実の意味も分かると思います。
そして素直に歩んでいれば、そのうち刷り込みがなくなり真実の素直の意味も分かるのです。

王道とは、至純の魂で居続けることではないかと改めて実感しました。
これからまたその方との新しい人生のはじまりを乾杯していきたいと思います。

平均化の嘘

何でも均一化し、画一化し、平均化していくというものがある。

作物でも同じく、違う形のものを市場では販売せずに同じ大きさ同じ味、同じ見た目を重要視し、そうでなければ販売を認めないといったものもある。

スーパーマーケットにいけば、同じ形の野菜や果物ばかりであるのもそういったものでなければならいといった設定されているルールがあるから成り立っているのです。

学校の勉強でもスポーツでもそうですが、皆と同じことができるようになるまでとことん居残りや宿題をだしつつも勉強をしないといけませんでした。何か得意なことがあるだけでは認めてはもらえず、それ以外の教科が平均的な状態になるまでは先生と言われる人たちや周囲も必死です。

卒業するまでには、平均化したものになっていなければちゃんと育ててあげられなかったと悔いたりもすると聞いています。田畑の作物も同じく、同じ形にならなければ不作であり不毛でありお金にもならないというように農家も嘆くのです。

自然農をすると、それぞれが同じになるということはないということにすぐに気づきます。

ある大豆は虫に喰われ、ある大豆は風になぎ倒され、ある大豆は他の雑草に埋もれ、またある大豆は小さく、またある大豆は葉の色の薄く元気なものだったりもします。それはその大豆の与えられた生育環境と生来の生きる力に差があるのだから同じにならないのです。

そして出来上がった実は、それぞれの生きざまやその生き方、その経過がぎっしりと詰まったものを味わうことができるのです。言い換えれば、いのちを感じることができるとも言います。

しかしもしも、同じ形でないものは排除されるとしたら鶏のブロイラーのようにまったく平均化されるような環境で同じ卵を同じ内容で産ませるというようになるのです。同じでなければならないという生き方は、違いを認め合っている関係ではなくそれは苦しいものです。

御互いを認め合うというのは、平均の力が備わっているかどうかとは本来無縁なのです。

平均かどうかであるよりも、そのものであるかどうか、そのものを尊いと思う考え方です。
そのものがそのままで皆が尊いと認めたらどれだけ自分を肯定し信じていけるでしょうか。

こんな自分なんてといって精神がやんだり、さらには自分の身を殺めたりする人がいます。
これをその人のせいにする前に、自分たちの社会を一度見つめ直していく必要があるのです。

どんな社会が子どもたちにとって相応しいか、権力や経済を優先せずにです。

まだまだ自分の中にも平均化の刷り込みは色濃く残ってもいます。
まずは自らの刷り込みを取り除いていきたいと思います。