結果という概念があります。
一般的には何か先々に手に入れたいと思っているようなものを実現するというときによく使われます。
人が若い時につい生き急ぐのも何かを早く叶えたい、目標をちゃんと達したいと思うからともいえます。自分の人生を振り返っても、そういう結果を求めては様々なことに挑戦し取り組んでいるともいえます。
しかしこの結果という概念には、以上のようなものとは別の概念もあると思うのです。
例えば、「どんな結果になったとしても」というときの結果があります。これはたとえ先々が思い通りに結果にならなくてもいい、その結果に後悔しないような結果にしたいというものだともいえます。そしてその時の結果というものは、先の結果のことを度外視しているのです。
前述した結果を「先の結果」としたとして、後述したものを「今の結果」と定義します。
先の結果は、今というよりも先の結果のために今を使っています。
しかし今の結果は、先というよりも今の結果のために今を使っています。
これを私は結果の概念と呼ぶのです。
人は一瞬一瞬で生きています、気が付けば次の一瞬には自分も含めて誰かが死ぬかもしれません。それくらい人のいのちは数奇に満ちていて、誰も先のことなどは分かりはしません。だからこそ、先の結果のために生きていると今の一瞬に気づかなくなってしまうのではないかとも思えるのです。
今の結果を観れば、今の自分が納得しているか、今の自分は本気に生きているか、今の自分は人生を遣り切っているかと自問自答し続けて自分なりに一期一会の今を充実して味わい尽くしているのならどのような結果が訪れようとも満足したものになるのだと思います。
そしてそういう生き方をしていると、なぜか先の結果は今に近づいてくるのです。
しかし一般的な刷り込みでは、先の結果のために今を遣ろうとしてみんな今の結果のことはいい加減にして過ぎ去ってしまっていることもあるのです。つい流されてしまい、先の結果に執着して今を妥協するようになるのは今を生き切るという今が結果であると思っていないのです。
今は過去に生きてきた自分の足跡が、今です。
つまりは自分の結果は今にあるとも言えるのです。
その今がもっと善い今であるようにと願い日々を生き切ることが結果ではないでしょうか。今を生きず、先々のことばかり憂いては今本当に味わうべきことを先延ばしにしてしまうのではないでしょうか。
人生は結果ではないという人がいますが、それは今が結果だと受け容れている生き方があるからです。今という結果が自分の納得するものになるには、他の選択肢に逃避したり、先のことに変な期待を寄せたりしない方がいいのかもしれません。
あの自然界の生きものたちと同じように、私たち人間も本来の自然の姿、今に全身全霊を懸けるしかないのです。いのちはそういう生き方をそもそもするものであるし、その生き方そのものが今という時の結果に顕われるからです。
そしてそれを私たち人間は「自分らしく生き切る」ともいうのでしょう。
子ども達のことを思えば、その子の今を全肯定し全受容してあげられるような大人としての自分でいたいと思いますから自然界に倣いいつまでも自分も今に生きていこうと思っています。
今に生きるときだけ、はじめて人は足るを知るのだと思います。
結果が自分の都合にならぬよう、時の結果に、いのりといのちを感じていきたいと思います。