体験を積んでいくというものがある。
この体験というものは、新しいことに挑戦し取り組む中で得られる叡智ともいっていい。
自分の実体験から気づいたことを積み上げていくことではじめて実力が備わってくる。
つまり実力というものは、体験の集積というものであるのです。
その体験をしていても、一向に成長しない人と日々に目まぐるしく成長する人がいます。
それは体験というものの本質を理解しているかどうかにもよるのです。
体験というものは、頭で考えて行うような仮想の世界で取り組んでいくことはありません。それに過去に体験したからと体験が頭に残っているものを知っているだけでいるだけでは体験を積んでいるとはいいません。このどれもが、体験というものはやったことがあることだと認識しているだけでこの今こそが体験になることが分からなくなってしまうのです。
本来の体験とは何でしょうか、それは日々に新しくなっていくことをどれだけ新鮮に気づくことができるか、つまりは全てのことが新しくなっていくような体験をしているかとも言います。
つまりは、どんなことでも自主的に自覚的に主体的に自分から全部遣ろうと、自ら体験を積んでいこうという姿勢で取り組まなければ新しいことに気づくことができなくなるのです。
もともと体験とは頭で考えるようなものではなく、全身で感じて動いて気づいて獲得するものだと私は思います。それは自分が体験をしよう、何でもやらせてもらってそこから気づこうとする自分が創りあげていくものの中にこそあるとも言えます。
自他を含めて、誰かの指示や命令に従うことでは新鮮な体験することはできません。
体験はそれを自分が遣ろうとするときはじめて心が入り新しいものができあがっていくのです。
古いものにいつまでもしがみ付いたり、カタチに囚われて取り組んだり、過去の自分の実績に依ろうとするのはまだまだ体験の尊さ、その本質にに気づいていない証拠でもあります。
今まで遣ったことがないことを行うことほどワクワクドキドキしていくことはありません。
やったことないことだからこそ考える前に行動することを決めるのです。
はじめて登る山だからこそ、登ってみてから考える。
これが私の生き方で、怖いならばもっと高い山を目指せばいいと思っています。
なぜなら体験が如何に尊いかを学ぶことが私は活きる事、活かす事と信じています。
そしてそれは理屈抜きでワクワクドキドキと子ども心に火が着きます。
どうなるか何なのか知らないことで、冒険心が湧いてくるのです。
怖いけれどやってみたい、不安だけど挑戦してみたい、そんなワクワクドキドキする新しいものができる方が、人生の面白さに気づけて心が躍動する機会を得られると私は感じています。
新しい人たちと仕事をすること、新しい仕事をすることは、過去の自分の掘り起しではありません。新しいというのは、常に体験を通じての発見の日々を楽しんで生きていくことだと思います。
長くなりましたが、この体験の集積とは、好奇心の集積であると私は思うのです。
さらなる自分に出会える発見の喜び、新しいことを一緒に取り組める楽しみは、人生を味わう上では格別なものです。
もっと気づきたい、もっと体験したいという向上心と好奇心を常に高めて新しい体験を積み重ねて澄ませていきたいと思います。