目というものは色々なものを思い込むものです。
以前、見た目と違う味を演出する料理をあるレストランで食べたことがあります。
こちらはトマトのスープだろうと飲んでいたら違和感があるのです。
それはトマトの色はしていましたが、全く別の野菜を使ったものでした。
何度も味わっているうちに何の野菜かが分かってきて、どの野菜か確認してからもう一度ためしてみるとはっきりとその味が分かるのです。この体験から、食べるというものは舌で味わっているわけではなく目で食べていることも知ったのです。
言い換えれば、目を介してイメージが食べているともいえるのです。
こういうことから 一般的に人は、イメージで何かを思い込んだり先入観で無意識に囚われていたりとしていることがほとんどそうではないかと知ったのです。
こうやって刷り込みの中にいるのなら、ほとんどのものを本当にどんな味なのかわかっていないままに過去のイメージで食べているかもしれませんし、本来は何が材料なのかを勘違いしていることもあるのではないかと思うのです。好き嫌いも子どもの頃に食べたままの味がずっと残っているから今になってもまだ食べられないというものもあるのです。
人は自分の経験から、記憶としてその情報をインプットします。それがまったく異なる真実を目のあたりにしてもそれが目には正しく映らないのはこのように過去のイメージを常に追って映しだしているからとも言えるのです。
昔の体験からきっとこうだろうとイメージしたものであるはずだと思い込もうとしているのです。
人は同じように食べものだけではなく、様々な人も見た目で判断していくものです。
今のその人がどうかを味わうのではなく、過去のイメージがどうだったかで見るのです。
これでは真実は捻じ曲げられ、その歪から様々に正直ではない事象に悩むことになります。だからこそ、そのものをそのままに見るということは自分が思い込まずに見る必要があります。
言い換えれば、過去のイメージを捨てるという行為がまず必用だということです。
昔の記憶で相手を見たり昔の事象を見るのでは、 今がどうかを気づけないということです。
この今に気づくことは、今の自分に気づくことでもあり、この今に気づくことでもあるのです。
今に生きるということは言うことは簡単ですが、実践は少し大変なことです。
それは刷り込みを取りつづけ、常に素直な心で本質や実相を観続ける心の養育だからです。
何を養い育てていくか、それはあるがままでいることを如何に大切にするかということです。
そのために人は常に考え続けることを止めずに、刷り込みに対峙していくのです。
子ども第一主義の本質を常に探求しつつ、今を大切に気づき学んでいきたいと思います。