人類は今までさまざまなルールの中で社会を構成して集団を維持してきました。
現在の人の悩みのほとんどは人間関係にあるともいうように、それだけ集団でいるというものは御互いのストレスがかかります。違いを認め合っていくというのは、違いがもともと合っていいと思う社会があるからできるわけで今のように違ってはいけないと誰かによって抑えこまれているから余計に苦しくなるのだと感じます。
もともとこの集団に、独自の縄張りというものが生まれ自然を誰かが独占しようとしたところからの課題なのかもしれません。もともと自然界では誰かが何かを独占しようとすることはできず、あくまで自然にあるものは分け与える事で成り立つような仕組みになっています。
今のように、富を独占しようとしたり、何か自分の都合を優先しようとすれば、共生できなくなりその歪を戻すためにまた歪むという悪循環に陥るのも自明の理だと感じます。
自然界で集団を形成する理由を考えてみると、「手伝う」というものがあります。
最初は今のようにお金のためにや、ルールがあるからと働いたりはしていませんでした。
生きていくために、共に支え合い助け合うためにも自分から手伝うという選択をしたのです。
困っている人たちのために自分から手伝うとき、はじめてコミュニケーションは通じます。
自分から手伝おうとしないで、人と共に生きていくことはできません。
また今の時代は手伝ってもらおうと依頼することも苦手になってきています。
それだけ今の社会のシステムが、そういう当たり前のことをおかしくしているのだと思います。
もともと手伝いたい、助けたいそう思う心が私たちが対話をする理由です。
そして助けてほしい、手伝ってとお願いするのも共に生きようと対話をしようとしているのです。
少し離れただけで協力できなくなったり、日頃から対話ができなくなるのは、手伝うことの本質を忘れてしまっているからだと私は思います。
自分を活かすには、自分が得意なことで誰かのお役に立たなくてはなりません。シンプルに考えれば御互いの違いを認め合っているからこそ得意を活かそうとしたのだと私は思うのです。
そうして人は人間関係を思いやりのある豊かなものへと換えていったのでしょうしそうしていくことでいのちを紡いで繁栄してきたのだと思います。
権力やシステムで画一的に個性を埋没させ人を抑えて用いるのではなく、もっと自由に活かしていこうとする方が御互いを尊重し助け合うことができるようになるのです。
手伝うというのは自分の得意なことでその人の役に立とうと思うことからやればいいのです。
フラットでオープンな関わりは「お手伝いから」であると実感しつつ、対話を楽しみ、子ども達のためにもその見本になるように努めていきたいと思います。