平均と完璧

社会に出て経済を観ていれば、平均というものに如何に偏っているかがよく分かります。

スーパーマーケットにいっても規格品といった平均の枠内の商品が陳列され用意されています。そこには大きすぎる野菜や、小さすぎる野菜は店頭には並びませんし、魚介でも同じく蟹であっても足が1、2本足りないないだけで置いてもいません。

見た目も同じでなければみんな安心して買わないのです。
世間でいう良い商品というのは、平均的であり完璧であるものを選ぼうとするのです。

現在では、もっとも流通するものに合わせるという暗黙の了解があります。

それはその方が安くできるからですが、そうしていると大量生産大量消費する方が価値があるようになってしまうのです。大手企業が独占するのも、その標準化されたものがもっともたくさん売れるからでありその方が安心だという認識が消費者にもあるからなのです。

本来の社会の多様化というものは、本来はそれぞれが得意なもので作りそれをそれぞれの分限で販売していくというもので成り立っていたのでしょう。

世界を眺めれば、たとえ小さくても自分の持ち分で取り組む会社もたくさんあります。先日もある雑誌に自家製の化粧品をこだわり、原材料も自家製で制限して年間限定で販売しているのですが世界中のファンが購入する店舗があるのを知りましたし、お酒などでもこだわって自家米、蔵でできる数に限定した昔ながらのどぶろくを玄米で作っているところも同じように全国からファンが購入しています。

このように標準化された規格品にはない善さというものが平均を超えて、完璧ではない手作りのところに存在します。

そういうものは高いと言われますが、もともとの社会がそういうものしかないのなら高くはないのです。安いものをたくさん製造し、大量に消費し続けていれば当然安くて良いものが欲しくなるものです。日頃からどのようにお金を使い、自らの価値判断をするかで人は刷り込まれているとも言えるのです。

しかし実際の価格や価値というものが機械化・工業化により誤魔化されただけで実際の価値と価格というものが不釣り合いになってもいるのです。だから何かを購入しようとすると、すぐに人は値段から入るようになりそういう規格品の安いものを求めてはそうではないものを否定するようになったりもするのです。

多様化すればするほどに、本来は様々な得意分野を活かせるような商売がはじまります。競争といっても、協奏というように本来はそういうものが集まっているから御互いの創意工夫も発見も生まれたのではないかと思うのです。

私は今さら昔の商店街に戻るということを言っているわけではありません、本来の価値というものをよく見定めてから行動するということが大事なのだと思うのです。

自然と同じく、必用なものが必要なところに必然と在れば、活き活きしていくものです。

知らずしらずに受ける刷り込みにも気づいて、自らの本質を確立していきたいと思います。