ものの観方

人は今の社会構造や仕組みなどを盲目に信じる傾向があります。

なぜこのような制度なのか、なぜこのような法律なのか、なぜ社会はこうなのか、なぜ時代はこうなのか、なぜ自分がこうしているのか、そういうことには特に疑問を感じていないのです。

生まれてきてから誰も疑問に感じていないものは疑問と思わないのです。
しかしよく考えてみるとおかしいことに気づくのです。

もし自分が子どもだったらと思ったら、この世はおかしくて不思議に満ちています。

なぜ電気をつくるのに原発でないといけないのか、なぜ人口がこんなに増えているのか、なぜ都会に住むのか、なぜ学校にいかないといけないのか、なぜ働かなくてはならないのか、なぜ常識が必要なのか、素朴な疑問から複雑なものまで本当はたくさんのなぜがあるのです。

そういうことを誰も教えないままに暗黙の了解というものを持ってしまうことがあるのです。

本質を自らで深めていないのに、日々を過ごしていたら何の疑問も感じないロボットのようになるのかもしれません。

この世の中には、ものの観方というものがあるように思います。そのものの観方こそが、一度自分で深めてみるとガラッと変わるように思うのです。

例えばリスクというものを観てもいいでしょう。

人口は多いことは果たして安心なのか、資本が大きいことは果たして安全なのか、人気があることは善いことなのか、国家や会社の運営にしても経営でも、それはその人のそのものの観方の問題だと思います。

観方を変えれば、人が少ない方がメリットがあり、資本はちゃんと身の丈が善かったり、本質的であるほうが永続するかもしれません。人口などもここまで増えてしまったら、急な気候変動に対応できるはずもなく食糧は賄えません。人口を減らして食糧を備蓄することが、急な気候変動に対応できる対策のように思いますが少子化を止めることに各国は躍起です。

そう考えれば、その人の思想次第でいくらでもこの世界の観え方は変わってしまうのです。

同じ場所に居ても、同じことが善いわけではありません。

本質的な人には、この世界は周囲の人とまったく異なって観えるのです。
変人と呼ばれようが、そうにしか観えないのだから仕方がないのです。

目には見えないものを観るには、心の眼を養う必要があります。
そしてそれを私の言い方では、本質を正しく捉えるということと同義語なのです。

自分の眼で真実を観ることは子どもの素直の眼を持つことです。
この世界の新しい広がりは、子どもの感性である好奇心と勇気であろうと思います。

面白くしていきたいと思います。