天の時というものを学には、天地人というものを観るというのがあります。
かの楠木正成の家訓に下記があります。
「 一日の計は鶏鳴にあり。鶏鳴に起きざれば、日課むなし
一月の計は朔旦にあり。朔旦に礼ぜずんば、仁義むなし
一年の計は陽春にあり。陽春に耕さざれば、収穫むなし
一生の計は幼稚にあり。幼稚に学ばざれば、老後むなし 」
意訳をすれば、「一日を大切にするにはニワトリが鳴く早朝に計画を立てなければ、その日は無駄になります。一月を大切にするには月初に計画を立てなければ、仁義は廃れます。一年を大切にするには春に計画を立て、しっかりとその時に準備して取り掛からなければ収穫はありません。一生を大切にしたいのならば幼児期にこそ計画を立て、その時に気づき学ぶ事をお怠るなら老後は悔い廃れるでしょう。」
一日、一月、一年、一生、こういうものは先手で計画を立てていくことが時を活かすということを実践を通して大切にしてきたのだと思います。
よく手遅れだなと感じるときがありますが、そういう人たちを観ていたらいつも遅いのです。何が遅いかと言えば、朝が遅く、計画を立てるのが遅く、行動が遅く、気づくのが遅い、つまり遅いということそのものが「過ぎ去ってしまっている最中」ということであるのです。
何も考えずに流されれば天の時は分かりません。
やはり流されないようにするためにも、時というものが過ぎ去っていることにまずは気づく日々に感性が必用でそれは実践することでタイミングを捉えることができるようになるのだと思います。
法則の実践などもそうですが、考えてからやっていても遅いのです。気づいたときにすぐに行動するとタイミングがあって来るように大切なのはそういう日々の暮らし方、生き方、取り組み方を、以上の家訓のように生きていくことで天運に乗り幸運を手にするのだと感じるのです。
運の善い人というのは、何時も決断がスマートで行動もシンプルです。
それは気づけるように、何でも先手を取っているからであるのです。先にやってしまうことでもっとも大切なことが何か、それが失われないように自分を維持していくことができるからであるのです。
天の時機を学ぶのは、常に少し前をいくことのように思うのです。
それには習慣を変えて、いつでも自分がチャンスを掴めるように実践をするのみなのです。
頭で考えて理屈を立てて不平不満を悩むよりも、実践で築く在り方の変換こそなのです。
自然から天地人とは何かを感知していきたいと思います。