チームで何かを行う際に、様々なテクニックやノウハウなどの方法論があります。
例えば、それが声掛けであったり、ワークショップであったり、アクティビティであったりもし、そもそもの人間関係のもつれやほつれを取り除くようなことは往往にして行われているのです。
しかし本来、私はそういうことをいくらやっても根本的には意識が変わらなければ解決しないと思っています。なぜなら、人は技術で仲良くなるのではなくその大前提として意識の問題で解決するからです。
先日、ある園の相談で仲は良いけれどまだ一体になってはできないという話を聴きました。
しかしそんなことが本当はあるはずはないのではないかとふと思うのです。
仲が良いと本人たちがいくらいっても、一緒にやっていないのであればそれは仲は善くないのです。意識の中でそうなっていないということを言っているのだからやっぱり違いを認められず表面上は仲が良いと自分で言っているだけであるのです。
一緒に何か一つのことを行うとき、仲間意識として「同じ理念を本当に自分から一緒にやっているか」と思っているかどうかということがとても大きいのです。仕事でもそうですが、自分がやっているや、自分がやることだからと業務を行うように思っている人ほど、周りやみんなと一緒に進めようという意識は欠落しています。
人と一緒に進めようとするのは意識の問題でそう思っていない人がいくらテクニックで報連相や情報共有をしても、いくらチームが円滑にできる他の方法を採用しても、仲間と心身一体となっているとは言い難いからです。
不思議ですが、自分がやっているや自分だけがやらなければという意識はみんなと一緒にやっていくや、みんなと一体であるということから離れていくものです。そのうち、勝手に進めてしまったり、自分だけでやろうとしてチームワークそのものを根底から揺るがしていく行為になります。
いつも意識として、「一緒にやっている」と思ったところから仕事に取り組む人はいつも全体に繋がった効果をあげることができ、もっとも価値のある共異一体を構成していくのに貢献していくことができるのです。
先ほどの園では、仲が良いところを目指してはいるけれどみんなで一体になって一緒に取り組むことはあまり重要ではないという意識を持っているとも言えるのです。一緒に集まるのは何のためか、何かの目的のために集まったという大前提を掴んでいないとも言えるのです。
意識が違うだけですが、その差は歴然としているほどにかけ離れています。
みんなに自分が合わせるということは迎合するということではありません。
それはみんなで決めた一つのことを自分もみんなと一緒に取り組むことだからです。
それには本心本気の主体として自分が決めたことをみんなで一緒に遣り切ることです。
人はすぐに義務感から自分だけでと思いがちですが、一緒であることを忘れてはいけません。
それがチームや仲間に対する礼儀や仁義であるからだと私は思います。
こういう意識改革の重要性は目には見えないからおざなりになりますが、目には見えないからこそ心はしっかりと観据えて意識そのものの実践を深めていこうと思います。