好奇心は魂の道しるべ

心が遊べばどんなことへも好奇心を抱き、様々な「なぜだろう?」という物語を楽しめます。

この「なぜだろう?」と永遠に探求し続ける事ができる人は、必ずいつの日か真理に到達してその人生の妙味や意味を深く味わって楽しむことができます。この好奇心があればどんなことがあってもその種が芽をだし生長していくように、ぐんぐん伸びていくのです。

私の体験でもそうですが、今でも自分を駆り立てている力の泉は無限の好奇心です。

このままやっていたらどうなるのだろう?、この先はどんなふうになるのだろう?、これはどうしてこうなるのだろう?と、いつも心は自由に遊んでいてそこには悪意もなく邪気もないのです。そしてそれが子どもであると思うのです。

人にはその人にしかない興味や関心というものが必ずあります。

その人がもっとも興味関心があるところにその好奇心の種はしっかりと眠っているのです。

ひとたび何かのキッカケ、その出会いによってその周囲の土が潤ってきたり、光がさしたり、風が吹いたり、その季節が訪れたなら、好奇心という名の魂が次第に恐怖や不安よりも冒険したいという気持ちや、挑戦したいという気持ち、オモシロイという気持ちに転じて後押しし、勇気と遊び心が同時に沸々と湧き上がってくるのです。

つまり子どもは何にでも興味を持つように観えますが、私からすればそうではなく自分が興味関心があるものを探しているのです。

この好奇心という名の魂は自分の人生で求めているもの、今回の生で望んでいる魂の問いかけに応えようと自らが様々なものに興味関心を持つことでそれを探し当てようとしているように私には観えます。

外の世界は目に見ているところは複雑怪奇にできていて不思議なことばかりに心を奪われてしまいそうになりますが、自分の好奇心に素直になって委ねていたら次第に心が澄んできてその先に魂の道しるべが顕われ、そして自分の本来の居場所ということが自明するように思います。

好奇心は真実を求めていくための大切な魂の道しるべ。

これからもワクワクドキドキしていきながら、自らのビジョンを楽しく描いていきたいと思います。

地獄の仏

世の中の進み方に善いことが転じて悪いことになり、悪いことが転じて善いことにとなることは体験することと思います。これは在る一方にとって善いことになっても、それがもう一方にとっては善くないことにもなるという経験のことです。

世の中はそのように、どちらかが極楽であればどちらかが地獄だという例えがあるように自分側のものの観方とその瞬間瞬間の感じ方次第で、善きにも悪きにもなってしまうのです。

これはなぜこうなるのかといえば、自分の思い通りにやろうと自我が強いとその傾向が強くなっていきます。この時、人は相手を思いやるよりも、自分の心配ばかりをしてしまっているともいえるのです。

人は先に自分のことを心配すると周囲を信頼するよりも、自分の力のみを頼ろうとするものです。それは周囲によって自分が助けられていると感じることができないから、そうなっていくという悪循環に陥っているともいえます。

しかしこれをもし信頼する周囲や、自分がいつでも帰着できる心の安心基地があるのならその人は、自分を心配するのは誰か大切な人が見守ってくれているから大丈夫、だからこそ自分を気にせず心配せずに思いっきりやろうと取り組むことができるのです。

この安心というものは、その本人が見守られていると実感することしかありません。私の場合は、大切な人生の場面ではいつも一期一会の出逢いに見守られそれに気づき感じて感謝することでその実感を抱き続けていくことができています。

例えば、この世界も同じくもしもお天道様がいつも自分を見守ってくださっていると感じて生きている人はこの世の中を疑うことはしません。世間は正しい、周囲は正しい、間違いは自分の方であるのだと自然に矢印を自分へと向けて省みることができます。自分が正しいことをしていたかどうか、本当に正しいことをさせてくださいと念じている人はいつもお天道様が傍にいるのを実感することができているのです。

しかしもしもそういう見守ってくださっているとも感じることができない人は、どうしても世の中を疑い自分は間違っていない、周囲が分からずやなのだ、世間はおかしい自分の正しさを証明しようとばかりに相手に矢印ばかりを向けて省みることがないのです。そうなると、太陽が消えたように雲がかかり不安になるのだからその人はお天道様がいなくなったと悲嘆にくれるのです。

このように人は物の観方、その感じ方、信じるか信じないかで、自分自身で極楽に住むのか、地獄に住むのかを選択しているとも言えるのです。

私にとっての見守りとは、仏教でいう地獄の中にも阿弥陀如来や大日如来、観音菩薩、すべての仏に共通する存在がそこにいるかどうかということに似ているように思うのです。地獄の中にも、必ず見守ってくれているものがあることに気づける人はそれだけで幸せなのです。

どのような六道輪廻の日々を送っていても、そこに見守られている存在があるということ。心の満ちたりというものはそういうことに気づくかどうかにかかっているように思います。

私にもそういうものがありますが、それを多くの人達に感じてもらうことで世の中を少しでも明るく幸せで満ち足りた心の世界を広げていきたいとも思います。

色々な日々のことから、常に「これでいいのだ」を感じつつ、実践を味わいたいと思います。

 

 

子どもを先生に

昨日、GTサミットの中で藤森代表から「私たちは子どもの姿を先生にする」という話があった。

私も自然から学ぶとき、同じように子どもから学ぶ事の尊さを実感しそこに真実があるようにいつも思えるのです。

子どもが育つということ、生まれるということ、育てるということ、この「育」つというのはとても深い真理が潜んでいます。育という字の語源は、子どもが逆さまに母親から出てくるという文字から形成されています。

私にはこの逆さまということに大切な意味があるように感じるのです。

子どもの視点から物事をみたら、この世はどのように映っているのか。
子ども側から、育てるや育つ、生まれるとみたらどうしていることが自然なことなのか。

子どもと接する自分を省みるというのは、子どもの方が正しい存在して自分が果たしてどうなのかに気づくことのように私は思えるのです。

子どもに求めるよりも、自分自身の心の眼差しがどうなっているのかを省みるときはじめて子どもが先生となるのです。 しかし今の先生は、そうではなく先生の方が子ども達に求めてばかりで子どもたちからの本当の求めには応えようとはしていないように思います。

子どもの発達を信じて見守るというのは、本来の先生とは誰なのか、もともと先生とは何かというところに立脚することのように思います。

子どもを先生にして、自分自身を変えることに素直であることではじめて子どもの先生になるように思います。当たり前のことに気づける感性を、今の世の中の世間知を打ち破る強い信念を醸成して、子どもの周りに自然を呼び戻していきたいと思います。

教育保育の本質

昨日はGTサミットが、東京で開催された。

全国各地から保育理念を同じくする仲間たちが集まり、それぞれの実践の取り組みを拝聴するのは刺激をたくさんいただけます。

それぞれの園が試行錯誤しながらも、何をすることが子どものためかということを本質から省みて、最終的には見守っているかどうかと自分に矢印を向ける。私には、保育を志す真心に感じて子どものために実践を真摯に取り組むそのものの姿勢が何よりも尊いと感じるのです。

見守ったか見守らなかったか、信じたか信じなかった、できたかできなかったというのはあまりここでは問題ではありません。自分が決めた道、自分が信じた子どもを信じる道を歩もうと決心し、そこに直向に精進していくことこそが尊いことでそれが教育保育の本質だと私は思います。

人はつい頭で自分の都合よく物事を解釈し、自分の思った通りにいかせようと考えます。

しかし頭で考えたことは浅はかであり、本当に自分がやりたいかと自問すればそうではないことがほとんどなのです。自問は心が澄んでいるとき、もしくは魂がうずくとき、自分自身が自分で納得して実践する決めたまさにこの世の中の信した念のビジョンの世界です。

一度それをやろうと決めたなら信念を磨き、試練を糧にし歩んでいくしかないように思います。

共生の中にある親や子どもを思う心というのは、親子の道、天地の道、かんながらの道です。

そこに、確かな天の真心、人の愛が満ちていてそれを自ら糸を紡ぎ伝道したいからこそ魂は歩みを止めないのだろうとも私は思います。人は、本気で生きていれば必ず人と人との間にある確かな真実を確かめたくなるものです。

幾多の困難もあるかもしれませんが、天の試練は確実に自らの使命に気づくチャンスです。
数は急には増えませんが、着実に保育が広がっていることに歓びを感じ遣り甲斐を感じます。

何が本当に子どものためなのか、子どものためとは何をすることか、分別智を超えたところで真摯に学問をしていきたいと思います。自らが丸ごと信じる生き方そのものを、教育保育で彷徨うことがないように子どもの周りに自然を顕現させ、これからも広げていきたいと思います。

素敵な一日を有難うございました。

発達関心

発達というものを考える時、そのものがどのような性質を持つのかを学ぶ必要があります。

一年、四季を通していのちのカタチが移り変わる様子の中でその成育を観ていたらどのように発達していくかを共に自覚します。

はじめて育てていると、どこで何の手助けが必要なのか、どこまで必要なのかということを知るのです。そこには、関心という相手への配慮がなければできません。

自然農でお米を育てていますが、思ったようにはならないことは分かっていましたが季節と如何に密接に繋がっているか、そこを観るように思います。

その季節との接点の中で、その時機時期にもっとも必要な養分を得るように思えるからです。

実をつけるのも花をつけるのも、その季節のどこでそれをやるのか、こちらの思い通りにはならないのですから季節とそのいのちの接点の流れをよく観ていなくてはならないように思うのです。

昨日のブログでも書きましたが、天の道理やいのちの道理に精通していることがそのものの発達というものを感じる力になるのであろうとも思います。

発達を待つという心境は、周囲のすべてを感じ関心を持つことが同時にできているように思います。先日のソフトの研修でも、自分が発達を観るということは全体を感じていなければできず常に関心を持っていなければできないことだと話をしました。

ここに育つということに対して、見守るということ保育をするという本質があるように私は思います。育ててみないと分からないことも事実ですが、だからと言って間違っていいというわけではありません。

だからこそ、常に四季にいのちに関心をつなげたままで気づきつづける実践が必要に思います。日々の個々の発達への気づきはたとえ小さなものかもしれませんが、そのように取り組もうとする姿勢そのものが保育であり、何よりも尊いものであると実感するからです。

つい知識や技能に走ってしまいますが、失敗するときこそ大前提を忘れないようにしたいと思います。私なりの現場をかんながらの道とともに今は自然から学んでいる最中です。

共通する存在に気づくこと

自然農とベランダガーデニングを一緒にして探求していたら気づくことがある。

いろいろなことを対比しつつ実験しているとその時の自分の心境に気づくのです。

例えば、自然農をするときの私の心境は種を蒔いた後は色々と大丈夫だろうかと心配するけれどきっと善いことになるだろうと、もともとその種が持っている生命力や自然の叡智、天の采配を信頼してそのものが自立できるように見守っています。

この時は何もしないことの方が幸せを感じて、何もしていないのに育つのはなぜかと思えば育ついのちへの畏敬の念や、自然の親心を味わっている自分がいるのです。

そしてもう一つのガーデニングのときの心境は種を蒔いた後は自分とその種との関係を感じながら手を入れてこちらのイメージしているように順調になるように水をあげ剪定し、バランスがよくなるように繊細に関わっているのです。

この時は、お互いが密接に関わっていることの方に幸せを感じて、自分がイメージしたようになるのはなぜかと思えば自らが愛情に応えてくれるといった繫がりを味わっている自分がいるのです。

天の道理と人と道理というものがあるのでしょうが、昨今の教育や福祉と分かれているところにも似たような真実があるように思うのです。

どちらをやってみてどちらが正しいと言い争うことはあまり意味がありません。

そもそも違いを語るよりも、両方やってみてそれをどちらも実感したならば真実が一つであることにそのうち気づくことができるのです。

天も人も同じであるという天人合一というものは、どちらにも存在している確かなものがあるのを実感することができるからであるように思います。自然と一体になって生きるということには、そもそも分別されたものはありません。

そのどちらにも天の心を感じられる自分の心境があるからです。

世の中の真実は常に共通したところにあるように思えます。
まだまだ引き続き、実践しつつ学問を深めていこうと思います。

先手着実

先手はポジティブ、後手はネガティブというようになるのはなぜかと深めてみます。

先手になるのは心を使って全体を観ようとするから、次第にそれが思いやりから周囲のために自分を活かすことになり後は時間が経てば訪れた機会に対して日々に心を籠めて着実に取り組めば常にポジティブとへ転換しているのです。

しかしもう一つの後手になるにはそれにも理由がはっきりしています。

後手になるのは、目先ばかりを追い、その時、その瞬間にやるべきことを先延ばしすることを言うのです。随分早くから気づいていることでも、まったく自分一人の狭い料簡のみで取り組み気づかなくても、どちらにしたって何でも先延ばしすれば後に一気に挽回しないといけません。

この一気に挽回というのが着実ではないということでネガティブに転換していることなのです。

何かの理由でやりたくないからや、今はいいやと、やるべき時にやるべきことをしなければそれは全部後手になっているとも言います。

自分が何よりも実践することも、今は実践したくないと思ったとしても今やらないから後で一気にやろうとする発想が生まれてしまうのです。そのあとで一気に挽回するという言葉、これがもっとも着実ではないということなのです。そしてそれは怠ったからこそ出てくる発想で、日頃から着実に決めたことを淡々と遣り抜いていたら大事の時にも心が動じず揺らがないで丁寧に慎重に無事に乗り越えていくことができるのです。

この着実とは何かといえば、先延ばしをせずに準備をすること、つまりは何をもって着実かと定義すれば、日々、怠らずに丁寧に来たものをその時にやり遂げること、遣り切ることをいうのです。

着実にできない理由は、心の余裕のなさや忙しさからの不安、迷い、自我欲などもあるのでしょうが、そういうものは生きていれば日常茶飯事です。だからこそ、ちゃんと今やらなければならないことは何か、全体のために自分をどう活かしていけばいいか、何を行うことが世界や未来のためになるのかと日々省みることが大切だと私は思うのです。

目先を追っているばかりで、感じて省みず、いつも大切なことに気づかずに時間を先延ばしにしていたらそれこそが後手になり人生があっという間に味わう前に終わってしまいます。人生は一度きりなのだから、後手はありません。常に先手でいなければ実際の人生よりも実感する時間が遅れをとってしまいます。

だからこそ今しかやれないことは今やろうとして次回を期待したり一気に挽回しないでいいように、日々の精進、これ至誠と取り組んでいきたいと思います。

着実にしていくこと、着々と地味にやっていくことこそ積小為大の法則、つまりは智慧なのですから。

みんなのもの 一物全体

人は何かを自分の都合で分別するものです。

大人や子ども、男や女などもそうですが、仕事でも営業や内勤、福祉や教育など、事あるごとに分けて物事を認識しています。もともと言葉というものが生まれてから、脳は違いを認識するためにあえてそのものの境界線を引き理解するようになりました。

しかしそこからが問題で、その分けたものは一体誰のものかとなっていくのです。

国家の違いにしても今問題ですが、尖閣諸島は誰のもの、竹島は誰のものとありますがもともとは地球のものでありそれを勝手に権力や自分たちの都合で私物化したことで奪い合いや取り合いというものが発生していくのです。

もともと分かれていないものが分かれるというのは、この私物化というものが原因です。

仕事でも営業や研修、管理などといいますがそうではなく会社の仕事ですし、その会社の仕事は社会の仕事、社会のことは世界の仕事、それが全体へと繋がっていくのだから実際は自分の小さな私見でものを分けるのではなく分けないところで議論しなければならないのです。

自分の仕事と私物化するのと、自分の役割とするのでは意味は異なります。

全体の責任を感じていれば、自分の役割となるのですが、自分たちの都合や自分の私見・私物化が発生するから無責任なことをいって好き放題になるのです。

本来は、地球の資源にしてもどこかの国の戦争にしても本来は全体の責任を全世界の国家や人々は役割を担っているともいえます。他人事ではなく、それは自分にも責任が必ずあるのですから全体のために自分たちがどうすればいいのかを議論して関与していく必要があるのです。

もともと自分たちだけでもや、自分だけはというこの自分、自分というものは、私の分のことで本来は公分といった自分、つまりは全体の中での役割を果たす必要があるのです。

差別もそうですが、誰かによって一方的に切り分けられ配置され線引きされれば無責任なことをやっても平気になってしまいます。その変な線引き、つまりは様々な壁を取り払うには全体から考える、仕事で言えば、会社から考え、社会から考え、世界から考えというように全体にとって自分が責任をどう果たすかを思うときはじめて役割分担となるように思うのです。

いつまでもいがみ合い、いつまでも奪い合い、認め合わないのはお互いの中に私物化している線引きを持っているからなのでしょう。誰のものでもない、みんなのものだという考え方をしていけるように中庸や同化、渾然一体や一致といったところを見据えていこうと思います。

人事を尽くすとは

人には色々な悩みや苦しみというものがあります。

急に思いもしなかった自分にとって良くないと思える出来事が次々に起きると、人はマイナス思考になり今度はどんな悪いことが起きるのだろうかと困ってしまうのです。そして解決策が思いつかないときに余計に困窮してしまい信じることができなくなるのです。

何か困ったときに対応しようと思っていたら、困ったときには対応できないということがたくさんあります。だからこそ、日頃から困ったときのために困らないようにしておくことが困らないためのコツのように思います。

では困らないようにするとは何かと言えば、例えば日頃から信仰心を大切に祈りの実践をしていたら困ったときには必ず助けてくださると信じる力がその困難を乗り越える力になって手助けしてくれます。他にも、日頃から先に気づいたときに対策を講じておくために、学び続ける、深め続ける、気づきを改善まで実践をしていることでその時になったらその学問を活かすチャンスだと信じるようにもなるものです。

このブログでもそうですが、日々に内省し正しい「実践」を積み上げていけば大切な時に心が動揺しなくていいように信じる力を貸してくれています。

それにもともと昔から、「入船あれば出船あり」ということわざがあるように、入ってくる船があれば出る船があるように収穫というものは仕事でも同じく出ていくときもあれば入る時もある、それだけ時間が経てば必ず移り変わるというものです。

その時は、この今が永遠に続くのではないかと困窮すれば思ってしまうのですが実際は時が経てばそんなことがいつまでも続くことがないことに気づくのです。

昔、私も祖母が亡くなったとき、ちょうど仕事でもトラブルがあり、会社でも人事で悩み、家族が病気になり、やることなすことなんでこんなにうまくいかないのだと困窮したことがありました。その時は、打つ手がないのだからやることをやって待つしかないと覚悟を決めたら不思議なことに多々出会いました。それに、いつもの信仰心が手助けしてくれて自分のことを見守ってくれている存在にも気づくことができそこから勇気もらっているうちに時間が解決してくれました。

自分で全部できると人は思いがちですが、実際は多くの人達や多くの眼には観えない偉大な力に援けられて自分が存在しているとも思うのです。今の私も、たくさんの方々の見守りや、たくさんの自然の恩恵の中ではじめて自分が健やかに生きているのを実感します。

人事を尽くして天命を待つともいいますが、成果に一喜一憂するのではなく自分のやるべきことを真摯に取り組んでいたら必ず世の中が善くしてくれると信じていくしかないように思います。

運命というものは、自分が変えれないところで動いているように思います。それは全体で循環している中の一人が自分であるからです。

だからこそ、どうにもならないものに嘆くよりも自分の物の観方や出来事の感じ方を転換して善かったことにしていくことこそ人事を尽くすということの本懐であるように私は思うのです。

もちろんそう思えない日もあるでしょうし、そう思わないときもあるでしょう。

しかしそれは実はその側面で確かに自分を見守る存在があることに気づけるチャンスのように思います。天にお任せするというのは、自分が「これでいいのだ」と信じることではじめてできるようにも思えます。

本人にはなれずどうすることもできませんが、私が見守りを感じて信じる事で天命を一緒に待っていこうと思います。

経験よりも体験の集積

人は日々に色々な出来事を通じて学んでいくものです。

そしてその学びというものにも、経験というものと体験というものがあるのです。

経験というものは、起きた出来事をそのままにこんなことがあったからどうだったと自分自身で考えている状態のことを言います。しかし体験というものは、起きた出来事は一体何だったのか、これはどのようなことを教えてくださっているのかと感じている状態のことを言います。

つまり経験は誰でもしますが体験をしているとは言わないのです。

自分にとって良かったか悪かったかと思っている範囲ではまだそれは経験でしかありません。よくエピソード保育などと言われますが、その経験をしたからといってそれが何なのかというところまで感じることができていなければそれはあまり真の学びにはなっていないのです。

本来、学びというものはその出来事が良かったか悪かったではなく、成功したか失敗したかではなく、その経験を自らで深め味わい実に尊い体験をさせてもらったと謙虚に感じて意味に感謝するときはじめて体験できているといことになるのです。

私も一日を毎朝、毎夕、振り返り、とても素敵な一日であったと内省するとき、自分に与えてくださった尊い体験に何度も手を合わせることがあります。そんな時、この体験が持つ本当の価値や、この体験が示唆してくれる自分の学問に何よりも歓びと感謝が湧き上がってくるのです。

人は、誰でも人生は同じように経験を積むことができます。しかしその感じ方は十人十色です。

一度しかない人生を、経験だけ積んで何でも出来事がうまくできるような人になりたいのか、それともそれを貴重な体験に換えてそれを積んでどんな出来事からでも学べる人になりたいのか、これは明白なのです。

だからこそ、どんなことも常に深く味わいこれは何が起きているのだろうかと振り返り心の眼で見て感じて経験を体験に換えていくことで人生は無二の安心感に包まれていることに気づけるようにも思うのです。

心を高め魂を磨くには、どんなことからも学ばなければなりません。

有難い体験をさせていただいているこの今に、この見守りそのものに何よりも感謝しています。