善転回天

人は自分よりも相手を変えようとするとき、よく自我の感情の中に入り込んでしまうものです。それは自分の思い通りにならないと思うとき、気分がわるくなることを避けようともするからです。人は気分があるから感情のバランスをとれますが、それが時と場合ではバランスがどこにあるのかを見失ってしまうこともあるのです。

先日、ある園で先生から子どものことを考え過ぎて病的に悩んでいることを相談されました。その子どもの発達を観てみると特におかしなところはなく先生が一方的に子どもの何かの行動が気になり子どもを変えなければと思い込んでいるようです。

しかし本来、そういう時こそ自分の観方、自分の姿勢そのものが間違っているのではないかと気づくチャンスであろうと私は思うのです。私たちのソフトを使えば、子どもの方の問題ではなく自分のチェックするときの心境や観方がおかしいということはすぐに気づくのです。

しかしそういうことをせずに、日々に追われ何かの拍子に余裕を失うと、相手に求めすぎ不信や不安から自分は間違っていないのに相手はおかしいという視点に囚われているとも言っていいのです。そしてこの余裕がなくなる理由は、自分本体を主体として変えようとしなくなるからであり、周りや相手を変えようと思うその発想そのもの自体がとても受身で流されている行動であるからなのです。

そして本来、人はどこを中心に考えるかで考え方というものは生まれてきます。

自分を中心に考えるのか、相手を中心に考えるのか、全体を中心に考えるのか、極端に言えば、人間を中心に考えるか、自然や宇宙を中心に考えるかで、そこの基点、つまりは軸がどこであるかということに気づくのです。

その軸をどこに定めているかを原点ともいいます。

それを自分を常に軸にして物事を観ていたら、如何に全体がどうなっているかというよりは自分にとって正しいか間違っているかというその時の状況や気分で視野の狭い範囲の感情の中に入り込んでしまいます。

しかし、軸を原点に設置し、その原点がもしも全体、自然や理念といったものにすれば特にそれはおかしな起きていないと気づき、果たして自分がどうなっているのかと外側から客観視していくこともできるのです。

相手のことを信じるということは、丸ごとの世界そのものを信じることに他なりません。

例えばそれはいくら自分の中で受け容れ難いことがあっているとしても、それでもきっと世界は正しい、きっと周りは正しい、言い換えれば必ずこれは全てで丸ごと善いことなのだと、物の観方を転換し、それを福であろうと信じ転じることこそが原点のままでいることのように思います。

そしてこの原点のままでいるということを本質のままであるとも言うのです。

相手を変えようと思う前に、軸を転換すれば自分の方が変わった方が善いと思えるようにもなってきますしブレたことに早めに気づくことでブレをすぐに修正できるようにもなってきます。

閉じこもってしまえばなかなか難しいことでもありますが、周りを信頼して手を握り合い、共生の中で自分を活かそうと自分の姿勢を変えれば今まで自分の中で間違っていると思い込んでいたものが自分がゆとりや余裕がないのだと気づき自分よりも相手や周りの方が困っているように観えてもくるのです。

軸を何にしているのかで世界はそのみえ方を一変します。
どのような世界に見えるのかは、常にその人その人の生き方の転じ方で調整できるのです。

この世が善い世界なのか、それともよくない世界なのか。

それも人によってどうありたいかでいくらでも世界そのものを変えていくことができるのです。どうしようもない世界のようにも観えて悲観することもありますが、そういう時こそだからこそ自分の尊い役割があるし、いのちを輝かせて人生の醍醐味を味わい尽くそうと思える自分が存在できていると思えば、子ども達の住みよい世界にしていくためにも、 常に明るく善転回天していこうと思います。