先日、九州の農園で観察していると地力というものを実感する機会がありました。
地面に力があるかどうかなどは、もちろん土の中を掘ってみるとそこに数多くのミミズや土中生物があることである程度は理解することができます。その他にも、その周辺の雑草がとても元気に生い茂ったりするのもそうですし、同じ種を蒔いたとしてもその場所だけ明らかに茂り方が異なることではっきりします。
土地は、何か肥料を施したり耕したりすることで地力を上げると信じられていますが実際に自然農を行えばそうではなく、いのちのめぐりが豊かなところほどに土地が元気であるのを実感します。
多くの虫たち、多くの菌類、数多くの雑草の種類、つまりはいのちが多く躍動するところほど元気ということであるのです。
この元気というものは、お互いが一生懸命に自分らしく生きているときにこそ発揮されています。自然界では、それが多く集まるところにはいのちの生き死にもたくさんあり、そこではいのちの営みが繰り返され他のいのちを活性化させていくようです。
私たちの世代は競争することで勝ち残ることを教えてこられてきましたから、何か競争することは悪いことではないかや、もしくは必ず勝たねばならぬなどと執着を持っていました。確かに物の見方においては、勝ち負けというものがあり生き残るか死ぬかとなれば競争して勝つほどに力を持つ必要があると思い込んだものです。
しかし自然界を観ていたら、これは競争ではなく協奏ではないかと思うようになるのです。
お互いが自分の生を一生懸命に生き切れば、それが何よりの競争になり転じて協奏になるということ。人と競うというものは、自分も負けじと一生懸命に生き切るとやっていたら必ず他のいのちと共に生きるということで偉大なものに活かされたとなるのではないかと私には思えるのです。
自然淘汰といって、弱いものは亡びるともありますがこれはどれだけ自分で生き切ったか、生き切ろうとしたかが大きな影響を与えている気がします。どんなに粗悪な環境に生まれ落ちたとしても、そこでの一生を誰かのせいにはせず、何かのせいにはせずに、その中で自分らしく生きていく中ではじめて真の進化があるように思うのです。
協奏していくということは、自分らしい音、自分らしい持ち味を活かして生き抜くことです。
つまりは自立が共生、共生が自立のことであるのです。
誰かと競うのではなく、自分らしくあることで奏でることこそが皆と力を合わせることのように思います。自然は私たちの物の見方の刷り込みを取り除く、大先生であるように思います。普遍的なものから学び、先生の先生を象り、もう一度学び直しを促していこうと思います。