物事の確認をするとき、一体何のためにやるのかが分かるというものがある。
これは素直な心でなければ、自分の思い込みや先入観から正しく感じることができなくなるのです。人はすぐに自分の脳で考え、分かった気になるものです。本来は何のためにやっているのか、そういうものを捉えずに物事の実相が隠れてしまえばほとんどそれは動作的なものになってしまうからです。
そもそもそういう本質や本当は何かということを忘れないためにも、日々の実践があるのです。日々にやっていなければ、次第に脳で処理した現実の方が実相だと勘違いしてそのうち自分が本質からズレていることすらも分からなくなってしまうからなのです。つまりは脳が誤魔化すのに心が征服されてしまうのです。
本質を捉えるというのは、自分を中庸で維持していることに似ています。
何のためにやるのか、何のためにやっているのか、そういうものをまず一呼吸置いて間をとってから取り組むこと、それだけでも自分が本質からずれなくなるために必要なのです。
例えば、一日のはじめに今日自分が行うことは本当は何かと考えること、そして本当は何だったのかと一日の最後に省みること、こういうことを実践するものだけが周囲に迷惑をかけずに本質からずれず流されないで理念やビジョンを実現することができるように思います。
信念というものも、そういう本質を省みて自分自身を強く正しく向け続ける中で育成できるものであると私は思うからです。自分の都合をそこに入れたり、自分の勝手な楽な方法でその場をしのいだとしてもそれは正しくないのだから素直な心も働かなくなるのです。
直観というものも、自分が本質でなければ働かないように思います。
如何に正しいことをさせてほしいと祈るような日々を送れるか、謙虚に恭しく慎む生き方の日々が素直であるということに他なりません。日々の学びの中で、自分の頭でっかちにならないようにもっと自らの感じ命じるままの実践を楽しんでいきたいと思います。