人は何かを自分の都合で分別するものです。
大人や子ども、男や女などもそうですが、仕事でも営業や内勤、福祉や教育など、事あるごとに分けて物事を認識しています。もともと言葉というものが生まれてから、脳は違いを認識するためにあえてそのものの境界線を引き理解するようになりました。
しかしそこからが問題で、その分けたものは一体誰のものかとなっていくのです。
国家の違いにしても今問題ですが、尖閣諸島は誰のもの、竹島は誰のものとありますがもともとは地球のものでありそれを勝手に権力や自分たちの都合で私物化したことで奪い合いや取り合いというものが発生していくのです。
もともと分かれていないものが分かれるというのは、この私物化というものが原因です。
仕事でも営業や研修、管理などといいますがそうではなく会社の仕事ですし、その会社の仕事は社会の仕事、社会のことは世界の仕事、それが全体へと繋がっていくのだから実際は自分の小さな私見でものを分けるのではなく分けないところで議論しなければならないのです。
自分の仕事と私物化するのと、自分の役割とするのでは意味は異なります。
全体の責任を感じていれば、自分の役割となるのですが、自分たちの都合や自分の私見・私物化が発生するから無責任なことをいって好き放題になるのです。
本来は、地球の資源にしてもどこかの国の戦争にしても本来は全体の責任を全世界の国家や人々は役割を担っているともいえます。他人事ではなく、それは自分にも責任が必ずあるのですから全体のために自分たちがどうすればいいのかを議論して関与していく必要があるのです。
もともと自分たちだけでもや、自分だけはというこの自分、自分というものは、私の分のことで本来は公分といった自分、つまりは全体の中での役割を果たす必要があるのです。
差別もそうですが、誰かによって一方的に切り分けられ配置され線引きされれば無責任なことをやっても平気になってしまいます。その変な線引き、つまりは様々な壁を取り払うには全体から考える、仕事で言えば、会社から考え、社会から考え、世界から考えというように全体にとって自分が責任をどう果たすかを思うときはじめて役割分担となるように思うのです。
いつまでもいがみ合い、いつまでも奪い合い、認め合わないのはお互いの中に私物化している線引きを持っているからなのでしょう。誰のものでもない、みんなのものだという考え方をしていけるように中庸や同化、渾然一体や一致といったところを見据えていこうと思います。