発達というものを考える時、そのものがどのような性質を持つのかを学ぶ必要があります。
一年、四季を通していのちのカタチが移り変わる様子の中でその成育を観ていたらどのように発達していくかを共に自覚します。
はじめて育てていると、どこで何の手助けが必要なのか、どこまで必要なのかということを知るのです。そこには、関心という相手への配慮がなければできません。
自然農でお米を育てていますが、思ったようにはならないことは分かっていましたが季節と如何に密接に繋がっているか、そこを観るように思います。
その季節との接点の中で、その時機時期にもっとも必要な養分を得るように思えるからです。
実をつけるのも花をつけるのも、その季節のどこでそれをやるのか、こちらの思い通りにはならないのですから季節とそのいのちの接点の流れをよく観ていなくてはならないように思うのです。
昨日のブログでも書きましたが、天の道理やいのちの道理に精通していることがそのものの発達というものを感じる力になるのであろうとも思います。
発達を待つという心境は、周囲のすべてを感じ関心を持つことが同時にできているように思います。先日のソフトの研修でも、自分が発達を観るということは全体を感じていなければできず常に関心を持っていなければできないことだと話をしました。
ここに育つということに対して、見守るということ保育をするという本質があるように私は思います。育ててみないと分からないことも事実ですが、だからと言って間違っていいというわけではありません。
だからこそ、常に四季にいのちに関心をつなげたままで気づきつづける実践が必要に思います。日々の個々の発達への気づきはたとえ小さなものかもしれませんが、そのように取り組もうとする姿勢そのものが保育であり、何よりも尊いものであると実感するからです。
つい知識や技能に走ってしまいますが、失敗するときこそ大前提を忘れないようにしたいと思います。私なりの現場をかんながらの道とともに今は自然から学んでいる最中です。