故郷~ルーツの風~

日本人の故郷とは何であろうか。
稲の故郷とは何であろうか。
そして自分の故郷とは何であろうか。
もともとのルーツを辿ると私はいったいどこにいくのだろうか。

そういうことに思いを馳せてみるのはとても面白い。

何度も何度も繰り返し巡りながら広がり場所を変えては生きているこのいのち。

その元を辿っていくことは、ひょっとすると故郷への旅なのかもしれません。

懐かしいと思える場所に行くことや、
懐かしい思い出に心を合わせていくことは、
自分の今を確認するためにもとても大切なことのように思います。

昔ながらの暮らしや昔からの友、今も変わらないものが故郷にはあります。

そういう大切なものが本当に残っているのは。
自分の中の故郷を失わないからかもしれません。

人は時として立ち止まり、時として振り返り、今までの道を辿ってきたことを遡ります。
それは時を感じて時を超えて、時に生きる存在の妙味を楽しんでいるのかもしれません。

・・・

海の彼方から吹いてくるあの懐かしいルーツの風に心を載せてゆらゆらと魂を預けてみます。
子ども達のためにも、遥か先の光をしっかり捉えます。

 

 

人類の大切なお役目

人は感情の生きものであるという言葉があります。

誰が言ったかのかは知りませんが、それは人は感情を交わすことで共感し互いを信頼していくことを学ぶからであろうと私は思います。そしてなぜ学ぶ必要があるかといえば、それが生きるということにおいて何よりも大切なものであるからです。

よく素直な感情をという人もいますが、私はそうではなく感情が素直なのです。

自分というものをさらけ出すということも、何でも言い合える関係というのもそれは何を言っているのかといえば感情を出すことをいうと私は思います。

子どもの頃は、感情を出せるのは素直であるからです。

ちょっと喧嘩しても泣いて笑ってすぐに仲直り、子どもは感情をむき出しにして人ととしての力をより引き出していきます。もともと信じているから感情も素直のままなのですが、これが大人になるにつれその感情を抑制しようとしていくのです。

大人の社会になるにつれ、信じる事が出来なくなってきて自分の感情は表に出さずに大衆にあわせたり権力に従ったりして周りとうまくやっていく方法を学んでいきますがそんなことを続けていても信じ合うといった生きる力は伸びていきません。逆に生きる力というものは減退し、疑心暗鬼になり、衝突を避けるようになったりしていくものです。そうなると感情を出すよりも隠すようになり、次第に信じあうことが難しくなり人間が最も大切にしてきた絆の力を弱めていくのです。

感情というものは、人が共生し絆を深め自立していくために何よりも大切なものです。

例えば、人が人を愛することはとても尊いことです。生きている歓びを感じますし、何よりも幸せを実感できます。しかしこの愛を学ぶにはそこには嫉妬、寂しさ、嬉しさ、悲しみ、苦しみ、喜び、切なさ、楽しみ、などキリがないほどに複雑な感情があることも同時に知るのです。つまりは様々な感情を通して私たちは本当の自分、元々この生命の世界がどのようになっているのかを自覚するのです。

自分というものも、魂や心、体が組み合わさって混ざり合って出てくるのが感情です。
その感情がもっとも素直であるというのはそこからも感じるのです。

素直さというのは、生きていくことには欠かせません。

そしてこの素直は、本当の自分の姿、この宇宙や大自然の姿そのものでいることなのです。

感情と上手に付き合って冷静になるというのではなく、感情そのままを受け容れることであったり、その感情を分かち合ったり共感したりすることが人が一人ではないということを確かめあうことのように思います。

ありのままをさらけ出すのは恥ずかしいことかもしれません、しかし子どもたちが信じているのは大人になっても感情をさらけ出しても偉大な目的のために一緒に生きていくことができる、困難を乗り越えても人は繋がっていることができると信じる世界にしていくことだと思います。

世界は戦争を何度も繰り返しながらも、その先に人々がその困難を乗り越えて信じる世界を切り開いていくことを目指しているように思います。それが人類の大切なお役目なのかもしれません。だからこそ、子ども達に恥じないような信の実践、つまりは感情もその人格であると丸ごと受け容れて認め合い共に自立して生きていける世界を自らが創っていると自覚することだと思います。

人は必ずどんな感情を持ったとしても、それをわかり合える時が必ず来ると思います。
そこから逃げるのではなく、その感情は尊いのだ、それがお役目なのだと思うことです。

未来の子ども達のために、感情のままの素直な自分を出せる世界にしていこうと思います。

尊いご縁を有難うございました。

成長し合えるパートナー

先日、成長し合う関係について話をする機会があった。

人は人生の中で、色々なパートナーに出逢います。

それは仕事であれ、上司部下であれ、恋愛であれ、友人であれ、その時々で自分に必要なパートナーに出逢うのです。自分をより成長させていくために、人は出会いを求めてその出会いを通じて学びあってお互いにないものを引き出していくという感じです。

しかし私はこのお互いにないものと思われがちなものは、実はあるからだと思うのです。そしてそれは同体験の気づきや共感によって得られると思うのです。

例えば、ある海辺でとても美しい夕陽を眺めてその美しさとその大自然の妙なるものを語り合ったとします。そこで自分はその夕陽に人生を照らします、そして共に観た人もまた心の在り様を素直に語ってくれたとします。

そこではお互いにその人のその美しい心に感動するのですが、それはお互いがもっているからであると思うのです。お互いが持っている心、そこに共感、共通、共有できるものがあるということです。もしも、それがなければお互いに通じ合うことはありません、だからないものを引き出すのではなくあるものを引き出しているのです。

一見、タイプが違った人同士が惹かれあったりするのも見た目とは異なり同じ心を持っている、同じ美しさを共有できるものを互いに持っていると思えばやはりご縁は不思議であるといつもそのようなときに出会いを省みます。

そういう自分のもともと持っているものをその人の持っているものと顕し方が異なることで新しい自分の感覚に出会い成長がより引き出されるのだと私は思うのです。

そしてそれは同時に互いに同じ時に同じ場所で同体験などを通じてもともとあるものが活性化され引き出していくのだと思います。だからこそ、仲間や同志、パートナーという存在はお互いに成長するために必要不可欠な大切な存在であるのです。

しかし、成長を続けていくパートナーというものはお互いに自分を深め続けていく必要があるようにも思うのです。それは何人も出会えばいいというものではなく、同じ理念を持ち、同じ方向で、同じ心で、同じ真理を探究する、このようにお互いに深めていくことでお互いの持っているものをさらに深く継続して引き出していくことで成長し合えるパートナーに自分もなるのです。

どちらかだけが深めていてもそこには共感や共通というものにはなりません、やはりそこには人生の同体験を通じて深めていくことで互いに感じ合うことを分かち合い学ぶのです。

教育とは、その人のもっているものを引き出すとよくいわれます。その引き出すという言葉、引き算でもあるこの引くということはもともとあるものだからそれを導き出すという意味でもあろうとも思うのです。

今では、相手がないものだからそれを足させようとする傾向が強いし、もともとないものだからとないものねだりをするような関係をつくっている人たちが増えてきています。あるものを引き出していく、あるものを活かそうとする考え方が成長でき、しいては最良のパートナーと出会うための法理であるように思います。

自分の中にあるものをたくさん発掘していく中で、多くの自分と出会うのも人生の醍醐味。
日々に出会いを楽しんでいきたいと思います。

それが自然

ベランダで稲を育てているからか、今朝がたトンボがどこからか飛んできました。

春には、ハチも飛んできたし、初夏にはイモムシも増えていました。

それに真夏にはクモもいて、時折は見たことのない鳥もやって来るようになりました。

高層ビルばかりで、下は首都高速が走る8階の建物のベランダに生態系が訪れます。

ビオトープを始めた時は、メダカやタニシ、その他の生きものをたくさん購入して持ち込みました。しかし今年の夏の暑さのせいか水草は元気だったのですがエビたちや一部のタニシのような貝以外は今は姿をみせません。持ち込んだものは次第にいなくなり、持ち込んでもいないものがたくさん増えてきました。それは新しいいのちであったり、どこからかやってきた生きものたちです。

驚いたのは稲の鉢の中からメダカの赤ちゃんが誕生していたことでした。
そしてそれは今もすくすく元気に泳ぎまわって大きく育ってきています。

他にも大豆や黒豆、紫蘇や山椒なども植えていますが次第に大きくなって仲良く花を咲かせています。ベランダでは小さなプランターで寄せ植えになるため、そこでみんなが寄り添って生長していますがその中にもちゃんと棲み分けそれぞれに光が当たり、雨が入りこみ、風が抜けるようにバランス感覚抜群に調和しています。

私が最初に頭で考えていた頃よりも、自然にしていたら多くの生きものが集まり、当初私が思っていたよりも自然にしていたらみんな本当に立派に健やかに成長しています。

何もしていない方が自然と感じる幸せな瞬間です。

自然というのは、いのちがすべて天然であることを示してくれます。
そしてそれは本来、自分のいのちが本当に望んでいたものを思い出させてくれます。

何もしないで待っていれば次第に自然になっていく、その慈愛を憶えるのです。
だから持ち込まない、持ち出さない、何もしない、それが自然の豊かさなのでしょう。

何もしないのが善いのはみんないのちは素直であることを実感するからかもしれません。
何もしないのが自然というのは、何もしないとき信じ、素直になっているということなのでしょう。

それがいつもの私が尊敬してやまない大好きな自然なのかもしれません。

自然が好きな理由との邂逅があった自然との出会いを今日も楽しんでいます。
子ども達の自然を見守っていこうと思います。

子どもに遺すもの

内村鑑三に「後世への最大遺物」(岩波文庫)がある。

以前より、代表的日本人の定義が何であるのか、なぜ書き記すのか、そして今はどうあるべきかなどを深めていた時にふとタイトルが気になっていたけれどインスピレーションがありこのタイミングで出逢うことができました。

もともと友人である新渡戸稲造の武士道と共に日本人というものの本来の精神性、将来と世界にどのようにこれを伝え発信するか、それはやはり私たちの国に具わっている本来の大和魂そのものに対する祈りの行動であったように思います。

今の時代は、私たち日本人の誇りというものを見失ってきているように思えます。

戦争に負けて、世界の文化に入り混じりそもそも私たちはどのような生き方をしてきたのか、そしてどうあったのかというものも次第に忘れ去られていこうとしているからです。

しかしこの自然の美しい国に生まれ、私たちが天地の間でより善く生きた証は何よりも私たちの血脈とその精神性に根付いているはずなのです。

そうしてそれを後世に引き継いでいくこと、遺して譲っていくことこそが先人たちの願いで後人たちへの祈りではないかとも私には思えるのです。子どものことを思えば思うほどに、何を遺せるのか、何を遺すのかを考えない日はありません。

そしてここに代表的日本人と同じく、大切な日本の心、大和の心というものがあります。

私に響き共感するところを連ねて抜粋していきますが内村鑑三は先述した著書の講演の中で、このように魂に語りかけてきます。

まず、

「私は何かこの地球にMemento(メメント)を置いて逝きたい、私がこの地球を愛した証拠を置いて逝きたい、私が同胞を愛した記念碑を置いて逝きたい。それゆえにお互いにここに生まれてきた以上は、われわれが喜ばしい国に往くかも知れませぬけれども、しかしわれわれがこの世の中にあるあいだは、少しなりともこの世の中を善くして往きたいのです。」

そして後世への最大遺物としてこう続きます。

「それは何であるかならば勇ましい高尚なる生涯であると思います。それが本当の遺物ではないかと思う。他の遺物は誰にも遺すことのできる遺物ではない思います。しかして高尚なる勇ましい生涯とは何であるかというと、私がここで申すまでもなく、諸君もわれわれも前から承知している生涯であります。・・・」

ここで二宮尊徳を例えに、生涯ということを省みます。

「それでこの人の生涯を初めから終わりまで見ますと、『この宇宙というものは実に神様・・・神様とはいいませぬ・・・天の造ってくださったもので、天というものは実に恩恵の深いもので、人間を助けよう助けようばかり思っている。それだからもしわれわれがこの身を天と地とに委ねて天の法則に従っていったならば、われわれは欲せずといえども天がわれわれを助けてくれる。』というこういう考えであります。その考えを持ったばかりではなく、その考えを実行した。」

そしてこう締めくくります。

「それにゆえにわれわれは神がわれわれに知らしたことをそのまま実行いたさなければなりません。こういたさねばならぬと思うたことはわれわれはことごとく実行しなければならない。もしわれわれが正義はついに勝つものにして不義はついに負けるものであるということを世間に発表するものであるならば、その通りにわれわれは実行しなければならない。これを称して真面目なる信徒と申すのです。・・」と。

今に生かされ今を生きる自分の本来の使命を感じつつ、真心のままにかんながらの道を真面目に往こうと思います。

力を実らせ、そして譲る

二宮尊徳の高弟に、富田高慶がある。相馬藩にて報徳仕法を実践し、二宮尊徳の意志を受け継いで数々の成果をあげた人です。

歴史には、功績を上げるために何かをする人と、思いやりや真心をもって人々のために尽くす人がいます。前者は、他人のためといいながら実際は自分の名誉や地位、その欲のために行うことになりますが後者はそういうものではないもののために譲り尽くそうとするのです。

二宮尊徳の実践は大変厳しく、常に民の立場を慮り民の心になってともに過ごし上からの報酬などは一切もらわず質素に事を為すことを誠をもって勤めていきます。

人はすぐに功績を自分の物にしたいと思うものですが、そういうものがあるから余計な気持ちが芽生えてくるのだと思います。我が我がというものがあるのも、いつまでも過去の功績にしがみ付いてそこから離れないのもそういうところから来る人間の欲であろうとも思います。

不思議ですが、囚われのない人は融通無碍に自分の功名などは気にもならないのでしょうが次第に人は自分の立場などの認識を持ち謙虚さを見失っていくものです。

そもそもその功績とは本来は天に与えられたもので、それに自らが人事を尽くさせていただくことでお役に立つ幸せを実感することができるとも言えます。つまりは、天の法則に対して人の道を尽くすということで私たちは生き生かされて互いに安住安心していくことができる生きものともいえるのです。

二宮尊徳の意志は、富田高慶というご縁を経由しその意志が松下村塾の品川弥次郎、西郷隆盛、渋沢栄一などに引き継がれて日本の経済の礎になっていくのです。このご縁というものの中では本物は感化しあうというか、必ず道が繋がっていくことを思えば真理真実の真心の道を実践した人たちは必ずいつの日か天の下で通じあう日がくるのだと思えます。

その富田高慶の組織改革の重要性について下記の語録が残っていてとても共感しました。

「それを主張した者が、己れが功を取る気になるといかぬ。十分に骨を折って、功を人に譲る気ににならなければならぬ」

(これは自分がやろうと言い出した人が、自分がそれをやったのだという功績を持とうという気持ちが一番いけない。何よりも誰よりも苦労をかってでて、その仕事に何よりも尽力し、その成果や功績は他の人に譲る気持ちにならないといけません。)と。

これはとても至言であると私には思います。

人はすぐに自分の功績にしたいから、どうしてもその身につけた力をいつまでも私物化して手放そうとはせず、そしてそれは自分がやったのだとしていつまでも他の人に譲ろうとはしません。譲ろうとはしないのは、自分の功績だと思っているからで本来はもっとお役に立ちたいと思うならそんなものにしがみつかずに誰よりも大変なことの方に取り組んでいくのが本来の人の道の姿であろうと思うからです。

そもそも謙虚になれば自分がやったのではない、これは皆の御蔭様をもって皆のために自分がその尊いことをさせていただいたからこそそれを為したらその功績と力はすぐに他の人に譲り、さらに自分はもっと大変な方を選び、その苦労を自らがかってでてももっとお役に立とう、そのような仕事を自分にさせてもらおうというのが推譲の精神のことであろうと思うからです。

そして志と力がある人ほど、そのように謙虚であることが何よりも周囲を活かし組織を改革していくのだろうと思います。

「実るほど頭を垂れる稲穂かな」

成長していく方を選んでいく人生、御役に立つためにいのちを活かしていこうとする人生、常に自身の人格を磨き、謙虚に取り組んでいけるよう初心を大事に精進していきたいと思います。

天地宇宙の羅網

生きものは植物から昆虫に至るまで自然界の天地の間では様々なことが起きています。

日々にお互いに関わりながら生存していくために様々な活動を行います。

朝、太陽が出ては、夕に沈み、夜になり星々が出てきますが、これも宇宙観で行われている営みであろうとも思います。

天地の間の人と書いて、人間であると私は思いますがこれは当たり前のことのようですが実は大変な事実であると思えるからです。

日々の営みが続けられていくことや、その続いていくことが関係しあっていること、ご縁という言い方になるのかもしれませんがそういう同時に行われる出来事の偉大さを感じるのです。

天地の中では小さな出来事も、地球の裏側では大きな出来事になったりします。

情報も同じく、辺境の小さな村での出来事が、地球全土を揺るがす大事件にもなっているのです。そう思えば、天地の間で発生しているカタチというものはつべてが織り合い広がっているもののように捉えることができるのです。

以前、鞍馬寺で「羅網」を見せていただいて説明を受けたことがあります。

よくよく考えれば、羅網のあの世界とはこの地球上の世界ではないかと思うのです。ああいう世界の中に自分たちがいてどのような生き方をし何を象っていくかということですがあれが宇宙の姿であろうとも思うのです。

宇宙とはどうしても目で見えるような認識から入ってしまいますが、本来はこの森羅万象の天地の間そのものの認識があってはじめて理解するものなのかもしれません。

日々の自然を観察しながら、偉大なものも感じていきたいと思います。

 

 

 

自然の学問

料理をするときに、レシピに書いてあるのを創るのと自分で創りあげていくものがあります。

私の場合は食べたものや味わったものを、感覚的に理解してそれを創造していくときに料理の楽しみを味わいます。様々な食材がどんな味になるのかを共通するところに集中し想像しながら近づけていくかのようなものです。

これは上手な言い方が分かりませんが、共感や共鳴といった共通するものの組み合わせを楽しんでいるように感じています。

この共にするということの本質は、全て自分側の方から働かせていくものであって相手や対象物に合わせることではありません。心はとても不思議でそういう万物全てのものが容れてあってそれをシンクロさせていくことができるように思うのです。

そして生きる力、その学び方というのはもちろん基本としての自然の法理や法則があることは大前提ではありますが色々なことを日々に体験し観察し、それを発掘し、真似をしていくことで自分のものにしていくことが学びの真の歓びであるように思います。

この自分のものにするというのは、簡単そうで決して簡単ではありません。善いものを取り入れるには素直な心が働かなければならないように思うからです。それは共通しているということがわかりそこから智慧を学びとることを行っているからです。

自分と共通するということは、自分の中に共通するものをどう発見するかと同じで自分の中にあるものを見出す内観がなければそれをものにはできません。

自然界には、学ぶものばかりですがそれを自分はどれだけものにしているのかと思うと本当に未熟です。それは智慧というものまで行き渡っていないからのように思える事が多いからです。

私が自然の中にいることがもっとも学べる理由は、自然にはどんな事柄からも学べる素地に満ちているように思えるからです。

今朝の雨であっても、昨夜の風であっても、もちろん木々の感じ方であっても、それをどう感受してどう感得しているかということから学びはさらに深まっていくように思えるからです。生き方からあり方から共に学べることは無限に存在しているのです。

孟子にこうあります。

「学びて厭わざるは、智なり。教えて倦まざるは仁なり。」

学ぶ事を嫌がらないものは本当の智者で、教えて飽きない人は本当の仁者だとありますが、自然界はすべて自習自得の世界であるように思えます。

そして続けてこうあります。

「これを自得すれば、すなわちこれに居ること安し。これに居ること安ければ、すなわちこれに資ること深し」

これは私の意訳ですが、(他人から無理に学ぶ人ではなく自習自得する人はいつも安心して学び続ける事ができる。そしてその安心した境地で自主的に学び続けるからいつも智慧を得られるのです。)ということになるのだろうと思います。

私にとっては私も自然の供であり、そして自然は私の先生そのものです。

最後に孟子でこう締めくくります。

「万物みな我に備わる。身に反して誠なれば、楽しみ、これより大なるはなし。」

自然と共に道を往き、真心の中にある学問をいつも楽しんでいきたいと思います。

ズレテイルの本質

ズレテイルということについて深めてみる機会があった。

よく自分がズレテいるのではないかと確認するということは誰にでもある事です。自分の方が正しいと思っているからズレテイルと思うのですが、本来のズレテイルというのはその自分が正しいと思っていることがズレテイルの本質であると私は思います。

そもそも大前提として自分がズレテイルと思っている人はどんなことも素直に聴き、常に自分がズレテイルのだからと謙虚にズレテイルといつも感じています。そのことが、ズレテイナイ自分というものを維持する法則であるのです。

しかし実際は、自分のどこかズレテイルかと確認する人はどこかに正しいと思い込んでいる自分の価値観があるから相手や周囲を自分の主軸にしてしまうという間違いを犯してしまうために、ズレテイルということが分からなくなってしまうのです。

このズレテイルというものは、最初から自分がズレテイルのだから周囲は正しい、相手は正しいと信じているのだから、常に変えるのは自分、相手を変えようとはしないという本来の原理原則の自然の主軸に合うようになるのだと思います。

つい相手を変えようとすると、相手のどこかがズレテイルのだろうと推察してしまうものです。そんな時は、自分は変えようとしたくないからズレテイルところを探してしまうのだと思います。本来は、自分がズレテイルのだから自分の何を変えればいいのか、根本は自分自体のズレなのだからと素直に自分を変えていこうと思うことがズレナイためのコツであろうと思います。

例えば、信じるということもそうですが、大前提として信じるというところから入る人は何があっても間違うことはありません。なぜなら、自分を変えることに素直になれるからです。しかし大前提として疑いから入る人は、どんなに部分を変えたとしても根本的なこの大前提の姿勢を変えていないのだからいくら変えたと思っても自分の都合で相手に変わってほしいか相手を変えたいのだからそれでは自分は何も変わっていないということになってしまっているのです。

自分はここまでやっているのにとか、自分がこれだけやっているのにとか、自分は正しいのになぜこんな理不尽になどと思ってしまうのも、このズレテイルことの本質、そもそもの本来のズレの意味に気づけけない、つまりは自分がいつもズレテイルのだから自分を正そうという素直な心、人や機会を信じる姿勢の方といった根本的な問題に本人が気づけていないということが真の問題であろうと私は思います。

コンサルティングという仕事も、他人に教えるなどという気持ちが出てくれば次第に自分が正しいのだと錯覚し相手を変えようとしてズレテイルの本質が分からなくなってしまうから特に注意が必要です。常に自分自身が変わることがコンサルティングなのだという基本姿勢こそがもっともズレテいないで導くということに気づくことだと私は思います。自分が変わらないままで、自分たちが変わっていないのに相手を変えようとすること自体が烏滸がましいのです。

最後に、孟子にこういう一説があります。

「人、その田を捨てて人の田を芸るを病う。人に求むるところのもの重くして、自ら任ずる所以のもの軽ければなり。」

これは意訳ですが、「人間は自分の田畑の草とりもちゃんとできていないくせにすぐに他人の田畑の草とりが進んでいないことばかり気にかけたり非難したりするものだが、それはすぐに他人には要求するくせに自分の役割や使命、その責任を軽んじた生活をしているからそうなってしまうのです」

そして続いてこう説きます。

「大人なる者あり。己を正しくして、しかして物正しき者なり。」

つまり「君子は、そんな余計な暇があるなら真摯に自分を正しくし変えるために専念し精進していくものです。そしてそういう人ではじめて周囲のすべてを正しく導き感化できるのです。」

反省することばかりですが、まずは自分自身がズレテイルということに常に意識を持ち他人のことを言う前に自分はどうであるのかと内省していくことを大切にしていこうと思います。相手を見過ぎるのは生活が怠惰になっている証拠ですから常に時間を大切に自分との正対を真心で取り組んでいきたいと思います。

 

 

虫も草も家族の一員

自然の中で農を学びつつ、自らの道に照らして一年が経ちました。

自然農のコンセプトの虫と草を敵にしないとありましたが、これもやってみて分かることがあったのですが今の時代の農法では農薬や除草剤により常に虫や草が敵だとみなしそれをどう排斥するかということに取り組んできたもののように思います。

あの手この手を用いて、様々な方法で虫も草も増えないようにとしてきたのです。

実際に作物を自然の中で野生的に育つのを見守ると、大量の虫たち大量の草たちが発生してくるのが分かります。その中で一緒に育っていくのが野菜なのでしょうが、それでは虫に喰われ、草に負けてしまうと思い込んでいるようにも思えるのです。

もともと最初から自然界は、持ちつ持たれつ、食べ食べられることで成り立ちます。

葉っぱを食べる毛虫を蜂が食べ、また別の葉を食べるバッタをカマキリが食べ、それをまた鶏が食べ、その卵を人間が食べと、常に食べ合う関係で成り立っているとも言えるのです。もしもその食べる関係が壊れれば、当然食べるものがなくなってしまいます。

虫がたくさんいるということは、食べ物がたくさんあるということですし、雑草が生い茂っていることもそこには食べるものに溢れているということです。自然界では、それは共に生かしあっていく楽園であるのです。

農園を楽園にするのか、農園が苦園にするのかは、人間都合でやっているともいえるのです。

今は私のやり方が注目され色々と非難されるのは、今まで自分たちがやってきたことへの否定や自分たちが正しいと信じてきたことへの挑戦であるように目に映るのかもしれません。

しかし私はただ虫も好きで草も好き、そして自然が好きで仕方がないからやりたいと思うのです。これは子どもが好きということも同じで、純粋に素直に好きだと思うから垣根が低くなり、障害がなくなっていくようにも思うのです。

もちろん虫には刺されるし、草にも負けるし、作物だって3分の1以上は食べられてしまうこともあります。思い通りにはいかないことがほとんどです、しかしこれは慈善でいうのではないですがその御蔭で生きものたちがいることを実感でき人間だけではないことを知り、食べるということが何かを覚り、自分の取り分がいただけることに感謝の念が湧いてくるのです。

虫も動物も草も、独占しようとはしていない、必ず食べる分しか食べないということも分かってくるのです。急激に害虫が増えるのは人間が自分の都合で減らしたりするから一部のものがたくさん食べれば同じくその食べる対象がいなくなるのだから一部の生きものだけが増えてしまうのです。

虫も草も敵にしないという言い方よりも、私には虫も草も家族の一員と思った方がいいかもしれません。それが私が虫を育て雑草を育てていると笑われている由縁かもしれませんが、地球の中でみんなで棲み共に暮らしていく豊かさを味わい尽くすことが繋がりという安心へと導くのです。

これからもこの永続してきたいのちの共生の体験と気づきを一つでの多くの子ども達の現場に引き継いでいきたいと思います。