メメント・モリ

先日、アップルの創業者スティーブ・ジョブズの名語録(PHP文庫)を空港で手にして読んだのですが共感が多く驚きました。

元々、禅から影響を受けたのではないかとも思いましたが今、此処で生きるということや、死を意識することで自分の怠慢を律するという生き方が随所に出ているように思います。

私も以前、若い時に「メメント・モリ(死を憶へ)」という言葉に出逢ってからその日その日が悔いのない一期一会になる生き方をしようと決意して出会いへの決意を定め名刺の裏にその言葉を記入したことを思い出します。

人は明日もまた来ると思ってしまいますが、本来は二度と同じ明日が訪れることがないのです。だからこそ、その日その日が毎日死んでいくかのように愛おしく大切に生きていこうとするのがこの今、此処の思想の根源にあるように思います。

せっかくスティーブ・ジョブズの語録を読んだので特に共感したものをいくつか紹介すると、素直な生き方、正しい生き方を求めた人生への言霊では、

「人生の時間は限られている。他人の人生を生きてはいけない。そして、いちばん大事なのは自分の心に素直に従う勇気を持つことです。」

「墓場でいちばんの大金持ちになっても意味はない、、夜、ベッドにもぐりこんだとき、『素晴らしいことを成し遂げた』と、そう自分に言えることが僕にとってはなによりも意味があるのだ」

そしていつも偉大な体験をさせてくれて成長できる場としての会社や仕事というものへも深い愛情の言霊では、

「やりがいというのは、会社を興したり、株式を公開するときだけに感じるものではない。創業というのは親になることと同じ経験だ。子どもが産まれたときはそりゃあメチャメチャうれしいだろう。でも、親としての本当の喜びは、自分の子どもとともに人生を歩み、その成長を助ける事だろう。」

「僕の目標は、魂(ソウル)を持ち合わせた百億ドル企業になることだ。」

そして、もしかすると安逸な方へと逃げようとする自分や仲間、会社を叱咤しいつもこう考えて自問し続けて勇気がいる方を選んでいたときの言霊では、

「その瞬間、ひょっとしたら自分の人生で最もすばらしい経験をみすみす放棄しているのかもしれない。」

「もし今日が人生最後の日だったら、今日やろうとしていることをやりたいと思うか?」

これらは、すべて自分の心に尋ねた言霊であり心をむき出しにして生きてきた証拠が随所に残っているのを感じます。これは誰にでもできることですが、それを正直にやるには善い意味で自分を裏切り続ける事が出来なければ最期まで貫くことはできません。

人は如何に素直に自分を正しく生きるか、他人と比べないで自分というあるがままの存在をどう貫くかで、どのようにその人らしく生きたかの軌跡がこの世にのこるように思います。それはまるで大きな偉大な絵画のパズルで与えられた自分のピースを、どのように明々と鮮明にしていくかに似ています。

あの夜空の星たちの中で、ネオンの明かりの中に在ってもそれでも眩く光り輝く星もあります。その星に人々が気づくことではじめて空を見上げ、あの夜空には無数無限の星たちが光っていることにも気づけるのです。

そう考えてみても他人のように生きるのではなく、自らの直観に従って信じて歩むことを示す人が世の中に与える影響はとても大きいと思います。自分の生き方へのこだわりを持って歩むことは、何よりも世界を変えていくことにもつながるのです。

子ども達のために譲ろうと目指している以上、先人たちの生き方から学びどこからでも真似てその歩みを共に強めていこうと思います。

 

 

 

情報とコミュニケーション

コミュニケーションの語源をたどると、ラテン語のコミュニカーレ(communicare 共有する)やコムニス(communis 共有の)などが出てきます。

もともと対話などとも訳されますが、本質的には互いに共有することをいうのです。

そしてこの共有とは何を共有するかは、信頼であろうと私は思います。

人は信頼関係を維持するために情報を共有するとも言えます。また逆に情報共有がなければ信頼は積み上がっていくことはありません。ここでの情報とは、表面上の情報だけではなく同時に発生する自分の感情などについても共有していくことではじめて信頼が生まれていくのです。

現代の社会は、自分の感情を交えると叱られるとか、感情を仕事に挟むななどと指導されたため一般的には感情は口にも態度にも出してはいけないといわれる傾向があります。またそのためか意図的に自分から感情を抑制して隠して出さないでいる人もいます。

これもよく勘違いされるのは、ネガティブなことを言わないというのはものの観方を変えるために言われている言葉であり、感情を出してはいけないと言っているわけではありません。もともと現実がどうにもならないのだから弱音や愚痴、文句や批判をしたりしてもどうにもならず、それを、如何に善転していいことにするかを考えなさいといつもアドバイスされているのです。

またその際に感情を抑え込む人がいますが、感情を抑え込むのではなく感情を転じてコントロールする方法を身につけるようにして自分を活かしなさいということを諭されているのです。

一昔前は、日中に仕事で感情を挟まなくても夜になれば飲みにでも行きそこで感情を語り合うことで融和しともに信頼関係を築いていたものです。しかし今は、そういう信頼がなくても結果さえだせばそれでいいと勘違いし信頼関係を築くことを優先しないようなつながり方が楽だと勘違いしてしまっている風潮もあります。

人間は互いに信頼を築くことではじめて協力し合うことができます。

そしてそこに至るには確かな共感というものが必用で、そのためにも情報を互いに共有する必要があるのだと思えるのです。この時の情報は、本来は人間がオープンにいるときの素直な感性や感情をあるがままに共有しようとするものを言うのだと思います。

人は居心地が善いところでオープンになれれば自分の長所や強みを存分に発揮し他の弱みに貢献し自由に助け合うことができます。如何に自らが相手を信頼するかは、自分から頼り信じることができる関係を日々にどう構築していくかによるのです。

人間関係は互いに無理をするところから破たんしていくようにも思います。

何を出しても大丈夫と思えるには互いを推測し合ったり疑心暗鬼になるような関係にならないように本来アウトプットしていかなければならない情報を自分だけで持たないようなことから配慮することのように思います。

共有するということや、共通理解するということは人類生存の鍵です。子ども達にもその大人たちの背中を見せてあげて、確かな生き方を示していきたいと思います。

 

 

美しい思い出

二宮尊徳をはじめ、代表的日本人を世界へ紹介した内村鑑三が遺した言葉がある。

『後世へ遺すべき物は、お金、事業、思想もあるが、誰にでもできる最大遺物とは、勇ましい高尚なる生涯である。』

これは、別の著書で2つの講演を記録した「後世への最大の遺物・デンマルク国の話」の中で語られたものです。

死を思うとき、何を遺せるかと思えばやはりその生き方であると思うのです。

どんなことを為したか、どんなに裕福になって偉業をなしたか、誰がやったか思ったかということでもありません。人はどのような人生であったにせよ、どのように素晴らしい生き方を目指したか、どのように素敵に生きていたかということが、子々孫々へ遺せるものではないかということに思えるのです。

日々に内省し、ものの見方を転じ、かんながらの道を歩んでいくなかで実感するのは先人たちが遺してくださった大切な生き方であろうと感じるからです。孔子もブッダも神話の先祖も、すべてはどのような生き方をしたかということを遺してくださっているのです。

私たちは亡くなったものたちから何をいただいているのでしょうか。
そして今生きているものたちから何をいただいているのでしょうか。

それはこの地球上で息吹く間のこの世でのいのちの在り方、生き方であるのです。

すぐに私欲や私心から、形ばかりを遺そうとしてしまいますが欲や心を清めて澄まし、魂の声に耳を傾ければ、美しい思い出を遺したいという感情が湧いてくるのです。

最後に、内村鑑三はこう続きます。

『われわれに後世に遺すものは何もなくとも、われわれに後世の人にこれぞというて覚えられるべきものはなにもなくとも、アノ人はこの世の中に活きているあいだは真面目なる生涯を送った人であるといわれるだけのことを後世の人に遺したいと思います。』

このいのちは全体につながっている中で巡っているのだから、子ども達に譲っていけるのは何よりも美しく生きたその物語、そしてその人の思い出そのものかもしれません。私たちはそこに確かな希望を得て、よりよく生きることを目指していくことができるからです。

私たちが譲られた美しい思い出を、子ども達にも譲り渡していきたいと思います。

 

自然は活かすこと

自然界では様々な生態系が繋がりの中で共生しいのちをめぐらせています。そこには無駄というものが一切なく、様々な活動そのものがお互いに必要な貢献につながっているのです。

それは生死を含めて、すべては自然の中に活かされる存在とも言えるのです。

しかし実際は、人間たちの都合で必要と不必要を分別し、思い通りにするために有害無害を決めて自然を征服しようとするところから様々な問題は生まれてきます。

そのことが活かそうとするという観点を失わさせているように思えるのです。

本来は自然とは、活かしあう関係の中で成り立つ世界です。

例えば、自然農を取り組むにしてももしも農園が野生化されたところで行うのなら野生化したままでそれを活かすような方法を考える。また人間の中で炉利組むならば、人との関係の中で活かすようにする。

常に何でも活かそうとする関係、どんなことでも活かせるのだという確信、そこに本来の原則と法理である自然あるがままの姿があるように思うのです。

この活かすというのは、無駄がないことであり、もったいないということに気づくということです。
この世は、八百万の神々が存在するように一つですら要らないいのちなど存在しません。

こういうことを学んではじめて、いのちを活かすという観点を持てるように私は思うのです。
天の心を学ぶには、天の在り方を学ばなければなりません。

自他を活かす共生と、その絆をつないでいる貢献というもの、そこに自然があります。

すべてのものを活かして、セカンドシーズンを迎えていこうと思います。

心のセンサーと察知の機能

場の感覚というものがある。

いくら頭で推察しても体験に照らしても、百聞は一見に如かずというか、そこに身体を運ぶことで得る感覚というものがある。

自然の中にも等しく、いくら予想や予測をしてもその場で流れている空気や息吹、様子などは感覚で掴んでいくものです。私の場合も、何かの物事を正しく理解しようと思うときはやはり身体をそこに運びます。

そして心を澄まし感覚を確かめているうちに、頭では理解できないものを感じ取っているように思うのです。頭で考えることは、言葉にしていくことで理解していきますが自然の理解は言葉にはならないセンサーのようなもので理解していると思うのです。

雨の感じも、嵐の感じも、そして変化の予兆も、感覚機能が先に察知しているように思います。

そしてこの感覚機能は手のひらにある人、額にある人、背中にある人、丹田にある人など様々ですがこのセンサーを研ぎ澄ましていくことで場の理解もまた深まっていくように思うのです。

心が感じたものを、機能で察知するということがセンサーの特徴のように思います。まずは心というものを身に修めることができてはじめて察知ということができるように感じます。そしてこれは生まれる前から持っているものであることに改めて気づくのです。

私の場合は心から手に伝わり、手から心に伝わるのですが、これも子どもの頃からずっと私のことを傍で見守ってくれている大切な御守りです。

大学にこんな一文があります。

「心不在焉、視而不見、聴而不聞、食而不知其味」(こころ、ここにあらざれば、みれどもみえず、きけどもきこえず、くらえどもそのあじをしらず)

心を常に留めていることで、はじめて様々な機能は動いているということです。

心のセンサーと察知の機能に磨きをかけて、尊いものを発掘し、発展させ、いのちある世の中に貢献するために精進していこうと思います。

 

自然でいること

イキイキしているかどうかの判断基準に、そのものらしいかというものがある。

野生に生きている生きものは、自然界で自分らしく生きているから生命力に漲っているように観えます。海や、川などでも天然で生きている魚も養殖のものと違ってその魚らしさが漲っています。動物園の動物と、実際の野生の山に棲むものも同じではなく自然界に棲むものはやはり漲っています。

野生で生きるということは、そのままでいるということです。つまりはいのちや生きる力はそのものらしくいるということに本質があると思えるのです。

人が元気をなくすのも、いつまでも何かに縛られ囚われるのも、すべてそのものらしさという徳のようなものが顕われてこないからのように思うのです。

そのものらしくというものを忘れている人が多いように思います。そのものらしくとは、信じること、頼ること、つまりは共生しているということであろうとも私には思えるのです。

今の社会やこの時代の環境がそのものらしさを認められないような世界であれば、そこに棲むものたちは元気を失っていくものです。自然ではなく、人工的につくられたものの中では主体は自分そのものではなくシステムのようなものが優先されていくからでもあります。

人工的なものは基本的には、自分の思い通りにしようと思うばかり、天や周囲のすべてを信頼することよりも現実的なところに焦点をあてられているものです。

そうしているうちに、頼り合っている姿よりも、頼らないでもいいものを追及する世の中になっていくのです。特に通貨などができてから、経済効率を優先するようになってからますますそれは顕著になってきているようにも思うのです。

私たちは果たして今のような価値観が幸せであるのかということに向き合う時代に生きているともいえます。

自然はいつも信じる事で頼り合うこと、頼り合うことで信じる事と共生の理念に生きています。

まだまだ自然の実践現場にて深めていこうと思います。

信頼するということ~心の在り様

先読みと先待ちというものがある。

先読みができるとうのは、将来に何が起きるのかを予想しているということです。ありとあらゆることを想定して、どのようになるのかを見通しているからこそできるものです。

考えられるすべてを想定して心で配慮し、その通りに行おうとするときこの先読み力が問われます。しかしこの先読みは経験や体験の中で気付くことであり、責任感などに裏打ちされて強くまた繊細になっていくようにも思います。会社でもホスピタリティと言っていますが、どれだけの気配りと配慮ができるかでその信頼の絆を深めていくことができるのです。

もう一つ、先待ちというのがあります。

私は直観系でシンクロニシティを感じるタイプなので、きっとこちらの方が強いように思います。

これは将来起きることを事前に知覚しそれを待つというものです。

自分の人生や運命を信頼して、必ず光が当たりお役立ちできる日がくるのを信じて必要な力を醸成し準備を怠らずに待っているということです。これは、信仰心があるからだと思いますが世間は正しい、天は正しい、すべてのことは正しいと素直に信じるからこそ信じているともいえます。

一般的に人は先に確証がなければ動こうとはしないものです。

何かをやろうとすると、計画を出してや結果を見せろなどと、何でも現実に存在しているものを基準に信じるか信じないかと確認してからどうするかを決めているように思います。これも科学で証明されたものしか信じないという用い方をしますが、例えば脳科学でそうなっているから信じられるや、学術的に研究され解明されたから信じるというように、まずは奇跡や真理というものに接するときは疑いの眼差しから入っているのです。

しかし実際の世の中で起きることは、宇宙を丸ごと理解するのと同じようにほとんどがすべて人智を超えていることしかおきておらずそれを信じるかどうかというのはその人の心の在り様によって左右すると思えるのです。

全ての人生、全ての出来事を信じることから入るのか、疑うことから入るのか、それはその人の心の在り様だと思いますが如何に自分から周囲を信頼するか、しないかはとても生涯において人との関係を築く上で何よりも生き方として大切なように思うのです。

実際には人間関係の中にも、相手に対し疑心暗鬼になっていて約束も守ったら信じるというような接し方をしている人が多いように思います。結果を出したらはじめて信じるという具合に、信じる前があり信じられないことが前提で接しているのです。本来はそうではなく、守ろうが守るまいがご縁を信じる、出会いというものを信頼しているということが良好な人間関係を築くことになるのだろうと思えるのです。

人間関係だけではなく、信頼というものはすべてにおいて必要です。

先待ちができるからこそ、理念を掲げて信念を持って優先順位を決めて実践を継続していくことができるのです。なぜなら、将来を信じているから、信頼しているからそれがやれるということなのです。人はすぐに自分の思い通りではないと気が済まないとなんでも自分都合で諦めたり悩んだりするものです。これは単に信頼しようとしないのです、信じるということよりも疑う方が楽だと思っているからです。

しかし本来は、それも一つの通過点、ちゃんと最終的には思った以上のことを用意してくださっていると分かって信頼しているのだからワクワクドキドキと日々を楽しみに過ごしていくことが心を高めていく精進のように思います。そしてその心境があってはじめて先待ちなのです。

先読みも先待ちも、どちらも心の力を使わなければできないものです。

読めないのも待てないのも、それは心で観ようとすることができないからのように思います。
心が安定し穏やかで、心が落ち着いているのも、心で観ようと、心を大切にしているからです。

人間学を学ぶのも、そういった心の鍛錬、心の練磨による穏やかな境地に達するために続けていくのだと私は思います。子ども達にも、信じるということの大切さ、周囲を信頼するということの偉大さを伝承していけるよう実践を深めていきたいと思います。

本物のリーダー

運を伸ばすというのは素直でいるということにはっきりと自明するご縁があった。

昨日、ある組織の幹部研修の中でリーダーについての講義があり、そもそもリーダーとは何かともう一度私も感じてみるとやはりそこには運が善い人であるようにも思えたのです。

人が着いていきたくなる人はやっぱり運をもってそれを伸ばしていける人のように私には思うのです。もちろん、リーダーの人格や人徳、その志や向上心、誠実さやバランス感覚など総合的にリーダーは分析されていたりもします。

しかし一番何にとってリーダーの資質があるかといえば、私にはどうも運が関係しているように思えるのです。

この人といることは運を伸ばすことになるという確信は、言葉にはできませんがはっきりと持っているように思います。そもそも自分というものは、自分の実力を勘違いしているときの方が焦ってしまいキャリアや地位など外側の自分の願望に魅せられるように思います。

若い時は、腰を据えて根をはっていくようなことよりも早く伸びようと伸ばそうと躍起になるばかりで地に足がついていないようなことを繰り返して質を高めることよりも量を追っていたものです。しかしある一定の挫折を経験しそれを深めていく中で質というものに転換され今度は来たものをどれだけ選択してそれをものにするか、意味づけしそれを次に活かすかという枝葉を伸ばしていく時期になるように思うのです。

どこまで伸ばすかというよりも、その根の分だけ上へと伸びていくように思います。この後は、まだ体験が深まっていないのですが花をつけ実がなり種となっていくのだと思います。このめぐりというものを思うとき、やはりそこには運というものがはっきりとあってそれを如何に伸ばしたかというものが大切であるように思うのです。

そしてその運を伸ばすというのは、どれだけ素直になっているかということに尽きるようにも思います。ここでの素直さというものは、どれだけ運が善くなるような生き方をしているかと捉えてもいいようにも思うのです。

言葉にするのは難しいのですが、やはり運の善い人というのはいます。例えば、よく他人のお世話をし誠実で前向き、最期まで遣り遂げ、丹誠を籠めて取り組む、または強く優しい思いやりがあり、ピンチをチャンスに換えて笑顔を絶やさず周囲に信の環を広げていくなど、キリがないですがこのように運に恵まれる生き方を大切にしている人が運が善い人だなと思えるのです。

そう考えてみると、運を伸ばすというのはそういった生きていく上での大切な智慧をものにしていく人のようにも思えるのです。そしてその智慧を使える人というのはやっぱり素直な人、そういう真心の人柄の薫る人物であるようにも思います。

ロシアのバルチック艦隊を破ったかの東郷平八郎の逸話に、なぜ国家の命運を懸けた戦いの海軍の司令官に彼を選んだのかと明治天皇が山本海軍大臣に尋ねると「東郷は運の善い男ですので」と答えたといいます。

日本の命運を懸けたような時、それを導くリーダーの条件は「運が善い」ということなのです。

これは楠木正成などでも深めてみて気づいたのですが、やはり運が善くなるような生き方をしている人だからこそリーダーであるのだと実感した気がしています。真のリーダーとは、このように素直な実践を続け運を伸ばし、「真善美というものを追及していく人物」のように私には思うのです。

私が同行している師を確信する理由はすべてこの運に確信があるからだと実感しました。

人生の中で、このように振り返り省みて自明する機会を得られたことにご縁の不思議さを感じるばかりです。人生は本当に面白いと好奇心に心を遊ばせていたら、一期一会の歓びと幸福観に満たされ自然に偉大で尊い感謝の豊穣の気持ちがこみ上げてきます。

貴重なお時間、貴重な出会いをいただけたこと、この学びに天の真心に感謝しています。
また道を歩みゆく中での運のめぐりを楽しみに学びを実践していきたいと思います。

有難うございました。

人類存続の危機

当事者意識というものを考えてみる機会がありました。

これは簡単に言えば発生している問題が自分の中のことにするか、自分の外のことにするかで意識というのは異なってきます。

例えば、テレビのニュースなどで災害や事件などを見ていながらそれは別の人で起きているのだからといって自分のことではないとどこか傍観しているという姿勢が自分の中に存在していると思います。

何を見ても何を聞いても、それはどこか自分と離れた遠くで起きていることだろうと思えてしまっていて別に自分には関係がないと思っているのだから情報が日々に入ってきてもまるで他人事のように感じているのです。

こういうのは国家でも会社などの組織でも同じことが起きていて、自分の国家や会社がピンチであるのにそれをどこか自分とは関係がないところで見ている自分があったり、何かの問題を解決するのは自分がやるのではなく誰かの仕事だと勘違いして自分のことになっていなかったりということがあるのです。

先延ばしや先送り、または知っているけれど何もしないし、気づいていてもそのままでも気にならないという感性はすべてこの当事者意識が欠けているということになるのです。

極端な言い方かもしれませんが、自分の人生のすべては自分に起きている全ての出来事であるのは自明の理です。情報というものも、どんなニュースも、どんな環境の変化も、全てはご縁として実際の自分の身に起きていることであるはずです。

先日ある組織の相談をのったときも、職員は園長へ不平不満ばかり言いますがあなたが園長だったらどうしますかと聞くとみんな黙ってしまいます。これも当事者意識が欠けていて、もしも自分が相手だったらもしも自分が相手の立場だったらと考えているのなら他人事ではなく自分自身がそれを解決する担い手なのだと気づくことができるはずなのです。

どこか相手任せにしてしまうのは、自分から任命されることが大変だから避けたいという気持ちがあるからではないでしょうか。もしも相手の出来事が自分に降りかかってきたとしたら面倒くさいや大変だ、やりたくないし巻き込まれたくないと、無難な方を選択している気持ちがあるからではないかとも感じるのです。

便利で楽を選べば得だという発想は苦しいだけで、大変だけど明日は我が身なのだから自分のことだと思って自他の別を持たず真摯に苦しみを選べば楽しむことができるように思います。そんなのがいいと思っている価値観が横行しているのは今の時代の特徴かもしれません。努力して精進したからこそ手に入る価値があるという昔のものは失われてきているかのようです。

しかし、どんなことも全部他人のせいにしていたら、では自分は何をやり遂げたのか、自分は何を遣ったのかということになってしまいます。最初から誰かがやっているのを手伝っているだけで自分がやっているわけではないのだからという姿勢そのものが、自分の持っている力をつかわないでいようと楽で便利な方を選んだという結果になっていくのです。

人生の当事者は自分であるということ。

そして自分の人生は自分で切り開くという強い情熱が、今のように甘い環境に恵まれた中ではとても大切なことのように思うのです。昔は私もそれが嫌で、わざと厳しい環境に身をおくことによって逃げ道を断っていましたが今は逆にこの甘えた環境の中でどれだけ自律することができるかということが大切だと実感しています。

それは自分の人生は誰かのものではなく、主人公は自分だとすることが当事者意識のように私には感じるからです。他人事なんてあるわけないと信じているからだろうと思います。

最初から妥協することが前提でやっているのでは、人は誰しも本気になれるはずがありません。全部の問題は自分を鍛えてくれる磨いてくれるとし、使命をいただいたのだから任命されたことで世界のために貢献しようと思う志が何よりも当事者意識を高めてくれると私は思います。

そしてそこには共感力、つまりは人類の存続に必要不可欠であった人類の得てきた至宝の智慧、つまり「繫がりや絆」を強くすることに関係しているように私には思えます。

今の時代は何が欠落してきているのか?、何が人類存続の危機なのか?

どうもそこには当事者意識という名の共感共生力の欠落、繋がりや絆の消失そのものが見え隠れしているように私には思えるのです。これは身近な組織の中にも侵食してきているのだから早急に気づいて早期に手を打たないといけません。

この辺は、まだまだ深めてみようと思います。

天与の才、天与の心

人はつい油断すると傲慢になって自分の存在に驕りが出てくるのものです。

例えば、自分の力というものでもそうであろうと思います。

もともと自分の力は自分でつけたものだと思っている人がほとんどですが、実際はその力は何かによって与えられたものです。例えば、両親によって身体が与えられ、たくさんのいのちをいただきながら維持し、天地自然の中で私たちは生命を持続させていくようにその自分の力というものも同じく天から与えられたものであると思うのです。

自分というものを私物化するところから、傲慢さというものはでてくるのだと思います。

その延長が国家であり、組織であり、資本主義の課題でもあろうとも思うのです。

もともと自分のものと思うのは、それが私的なもの、つまりは私物であるというところから問題が発生するのだと思います。これがもしも自分や自分の能力、才能はみんなのもの、自分は公器であること、自分のお役目は皆さんへ貢献することだと気づいていればいつまでも謙虚さを失わないようにも思うのです。

会社も自分の私物にし、仕事も自分の私物にし、時間も私物、気づきも私物、何でも私物化すればみんなと一緒に何かを行うずっと以前に自分勝手に自己中心的な人たちなのだからいつまでも同化せずにバラバラになってしまうと思うのです。

すべてはお借りしているもの、いつかはお返ししないといけないと正しく思っていたり、もしくはこれは天から頂いたものだから皆さんに活かさないといけない、または有難い能力を授けてくださったのだからお役目を果たそうと思う心にこそ、素直さや謙虚さが働くようにも思います。

それが一人はみんなのために、みんなは一人のためにの本質であろうと思います。
つまりはもともとは自分もみんなも個人の私物ではない、公物、みんなのものという意味です。

今の時代は、何でも自分のものかどうかということをはっきりさせる世の中のように思います。だからつい人は自分のものばかりにしようと躍起になっているようにも思います。しかしもともとは自分だけのものにしていいはずがないのです。

子ども達だって、子どもたちは天から与えられた大切な宝でもあります。そして自分の子どもではなく、子どもたちはいのちの中のみんなの子どもであるのです。だからどんな子どもも大人たちは育ちを見守っていく必要があるようにも私は思うのです。

そして話を戻しますが、この自分自身で生来からいただいたこの力も祈りの中で磨かれ授かったものですし、真摯に志を実践し、一期一会の真心の出逢いによって顕われてきた天与のものであろうと思います。

つまりその天与の自分、天与の才を如何に多くの人達の役立てていくか、それを思うとき私物としている自分を内省し、これでは宝の持ち腐れになってはいないかと姿勢を謙虚に見つめ直さなければならないのではないかと反省するのです。

この天与のものを活かすとは、天与のものであるという自覚によって生まれると思います。
いつも天の心を感じていたら、心が震えてきます。

忘れないためにも感謝の気持ちをカタチにしていきたいと思います。