生きた証

10月号の致知を拝読していると、運を伸ばすがテーマになっている。

ちょうど会社でも、先々月から運をテーマにしていたのでちょうどいいタイミングの記事であると道の実践の繋がりに不思議さを覚えます。

この運というものは福というものと私には同義語であり、運がいいのは福があるからとも思っています。この運とは何かといえば、私にとってははじめから決められたものという定義があります。

だからこそ運が善いというのは、その運を善いものだと素直に感じる心があるかどうかということになるのです。自分の境遇を嘆いてみても、それが与えられている現実なのだからどうしようもありません。

問題意識や危機感から、何とかしようと抗いますがそれも含めて運命というものは決められていることだと思うのです。決められている中で感じたことをどのように受け止めるか、受け容れるか、そしてそれを素直に感じるかでそれが禍にも福にも転じていくことができるのです。

運を伸ばすというのは与えられた環境の中でも一生懸命に真摯に生き切るということが基本にあるように思います。なぜならそれがもっとも自分に相応しいものであるからです。

しかし人間は欲があるからどうしても焦ったり、不満が出たり、危機感を募らせますし、特に向上心があるからこそ納得いかない日々の中で煩悶とするのも仕方がないと思います。

心を高め運命を伸ばすという言い方はとても素晴らしい表現だと思います。

そこには一度しかない人生を、思い切って生きた証があるように感じるからです。
思い切った人生になるかならないかは運と心で決まるということなのでしょう。

素直でなければ転じれませんから、素直な日々を真心の実践に省みようと思います。

体験の意味づけ

人は体験を共有することで思い出というものを分かち合うことができる。

思い出というものは、御互いが同体験をしそこで意味づけしたものこそが共に分かち合ったものになると私は思うのです。

毎日は流れていくものです、それは時がそうなっているように自分の知らないところで最終的な目的地に向かって流されていくともいえると思います。生まれれば、必ず死に向かって流されていくのと同じく最終的なゴールに向かって突き進んでいるのです。

よく流されてしまったと悔いている人もいますが、流されることが悪いことのように思っています。私はそうではなく、流されることではなく流れていなかったことが善くないのではないかと思うのです。

例えば、川に船を浮かべて旅をすれば川下に向かって船も進んでいくものです。そこで観えた景色やそこでの体験というものを意味づけし味わおうとはせずに船着き場へ到着してしまったらそこでの旅は何を学びそしてどうだったかということになるのです。

そこで一緒に旅をした仲間との思い出、そこで一緒に体験した素敵な思い出、苦しみもまた楽しみも悲しみも、どんな些細なことでもこの無二の旅を楽しみたいと決めていたならば大切なのはゴールすることではなくそのプロセスの方であったと誰でも気づくことができるのです。

そしてこれは体験の意味づけにこそあるように思うのです。

みんなで体験したことをどれだけ沢山の人達と意味づけしそれを共有するかで、思い出の質も量もかけがえのない美しいものにしていくことができるように思います。

日々の出来事ひとつひとつを気づき掘り下げ、それを流れながら意味づけるということこそが人生の点を線にして面にするような生き方であろうとも思うのです。

生き方というものは、如何に日々の出来事を大切に過ごしていくか、如何に流れることを味わうかに尽きると私には思えます。

そういう旅を一緒に味わえる人たち事がパートナーであり、朋であり仲間であろうと思います。

体験の意味づけをしつつ、これは本当は何かという連続の中で様々な真善美に気づいていこうと思います。

最幸の流され方を楽しんでいきたいと思います。

最幸の仲間 人間とは

人は一人で頑張ろうと無理をすると仲間を頼ろうとはしなくなるものです。

仲間を頼るというものは、一人でやらないということにも繋がっています。

頼れないというのは、信じる事が出来ないということの裏返しでもあるのです。困ったことがあれば、仲間に相談することや、悩んでいることがあれば仲間に吐露すること、苦しみがあれば分かち合うことではじめて人は信頼関係を築き上げていくことができるのです。

もちろん信頼には誠実さというものがあり、自分にも他人にも正直にいることが重要で自分自身への信頼度合いこそが他人への信頼度合いになっていきます。ですから、自分に克ことができている人や、自分を尊重している人、自分に素直な人ほど周囲から認めてもらえるのです。その逆に、自分を認めない人や、自分に甘い人、自分を蔑む人や、自己中心的な人、自分に厳しすぎる人はかえって周囲から信頼されにくくなってしまうのです。

これらはすべて一人で頑張るという悪循環から生まれてきているようにも私は思います。

責任というものは一人だけで取れるものなどほとんどありません。社会の一員、組織の一員、会社でも一員である以上、周囲を頼りにしながら任された使命を正しく成就実現していくのがその責であると思うからです。それが社会人の自立ということになるのだろうと思います。

自立ができずすぐに自分が負いこまれてしまう人は、自分が全部一人でやらなければならないと思うばかりで仲間に頼ろうとしない、助けを求めない人に多いような気がしています。つまりそんな過酷で孤独な状況になってまでも自分一人を自分一人でいつまでも責め続けているのです。これはもちろん、トップダウンの組織で育ってきた過去があったり、それを誰かにやられたりと、今の白黒はっきりさせる単眼的な社会の中でトラウマ的に自分がそれで傷ついてきたからだとも感じます。

しかしだからこそ、自分を変えてもっと仲間を信じる事や、もっと自分を見守る人を信じる事、もっと周囲の温かい真心に自分を委ねながら取り組むことなどを通して、決して自分から一人ぼっちにならないように常に意識していくことが自立にはとても大切なように思います。

それがチームの一員としての自覚、つまりは仲間を信じるという黄金のルールになるのです。

会社でも自分から仲間を頼っている人は、常に仲間に遠慮なく頼れますし、自分も頼りたいのだから日頃から頼られやすいように情報を共有したり、御互い一緒にやっているというメッセージを発信しあったり、些細なことを助けてもらっていたりと日頃から何かを頼みあっているままに働いています。

一人で頑張るよりも、仲間に頼る事の方が本来は勇気がいることだし素直であることのように思います。信じるという実践は、もっと仲間を信頼していく実践からのように思います。一人でできるようになることが自立ではなく、仲間をつくりそこに頼りあうことができるようになってはじめて自立であることのように思います。

遠慮なく頼れる関係が持てるよう本音や本心がでているフラットな絆を紡ぎながら、日々に「自分たちは最幸の仲間なんだ」ということを決して忘れないようにしていきたいと思います。

人類は、人間は仲間を創ることができてはじめて自立するのだと私は確信しました。

子ども達のためにも、仲間を信じることの尊さを自らの実践で伝えていきたいと思います。

苦を分かち合う

人は誰でも生きていれば苦しみというものを持っています。

一般的にはこの苦しみというものは善くないもののように捉えていることがほとんどです。しかし本来はこの苦しみというものからこそ、そこから沢山の素晴らしい出会いや思い出、そして幸せといった生きることの真の妙味を感じるキッカケになっているようにも思えるのです。

つまり昔から苦は楽の種とあるように、楽しみとは苦しみから生まれるように思うのです。
そして苦しみというものは一人で向き合っているときは苦しいだけになってしまいます。

人生では苦しみは避けて通れませんが、その苦しみを善いことへ転じる方法があります。

それは一人で苦しまないということです。

同じ苦しみを持った人に、人生の中で出逢えることは大変な奇蹟であろうと思います。

その苦しみをシェアし、分かち合えば、苦しみは半分に、歓びは倍になっていくように思うのです。これは先日、シンクロニシティがあり実感したのですが大変なことに取り組む時、どうしようもない現実に向き合うとき、そこに自分の中にも深い苦しみがあることに気づきます。

それはトラウマでもあり、自分が超えられない壁の一つで一人で悩んでいたものでもあったはずなのです。そういうものを解決するために、同じ苦しみを分かち合う人に出逢います。そして共に歩み進む中ではじめて苦しみの中にある真の楽しみ、そしてその中で回り逢えた歓びに幸せを実感することができるのです。

そう考えてみたら、苦しみというものを一人で抱え込むことはそういう楽しみや妙味を自らが避けてしまっていることになるのです。それこそが真の苦しみであり、苦しみがつらくなるときのように思います。

人はなぜ人生の中で、善きパートナーに出逢うのか。

それは同じ苦しみを分かち合うことができること、助け合うことができること、支え合うことができること、認め合うことができることのようにも感じるのです。そしてそれを共に乗り越える人を自らが選びご縁を引き寄せているようにも感じるのです。

不思議に満ちているのは、そこに苦があるからのように思います。
苦は決して悪い物ではなく、やはり偉大で尊いものだと実感することばかりです。

何かを誰かを一緒にやっている、それだけで苦しみも歓びも幸せと思えるのです。
こんな絶対的な境地があることを知れば、一人で生きることの無意味さを感じます。

やはりどんな偉人も天才も、一人では生きてはいけないのです。
それは幸せになれないからということなのです。

一緒に生きていくことの素晴らしさを、そして出会いの霊妙さを感じています。

これからも苦を活用し学びを楽しみ、一期一会の人生を味わう背中をもって未来の子ども達と苦を分かち合っていこうと思います。

希望

人は自分の与えられた環境を本人がどのように捉えるかによってその人生もまるで変わってくるように思います。

例えば、それがどのような状況であろうともその人がどう感じているかによっていくらでも最高でもあれば最低でもあるように変化してしまうからです。

そしてそこには2つの選択、希望と妥協というものがあるようにも思うのです。

何か理想を掲げて取り組む時、それを自分が先に諦めることは妥協を選択したともいえます。それは「どうせ無理」からはじまるあの言葉のことであり、人が希望を捨てる時に使う呪文のようなものです。

人はいつ負けてしまうのか、受け身になって自分らしさを失うかと言えばこの妥協に甘んじるときに負けたのです。人はどのようにして今まで自分を貫き人類を存続させてきたか、私はそれは希望だと思います。そして希望あるところには、必ず勇気というものがあります。人はできたかできないか、やれたかやれなかったかの前に、その選択に希望を失わなかったかということが何よりも大切だと思うのです。

いつだって希望は、私たちを心から支え、どんな試練にも立ち向かわせるパワーがあります。

どんな時も希望はまだあると信じて取り組んでいたら、そこに必ず未来が開けるキッカケが訪れるようにも思うのです。そこまで待てるかどうかというものが、信念ですがその信念にはやはり希望を失わないことではないかと思います。

人は何度も何度も挑戦するうちに、それでも失敗が続くとすぐに希望を諦めてしまうようになっていきます。特に同じようなことが起きそうなシーンが来たら、またかと思ってしまいその時に勝敗が決してしまうように思います。

私も昔のバレーボールの試合で何度も同じパターンになったときに、負けが入ったことがありました。その時こそ、ピンチをチャンスにと打開してチャレンジすることで希望を捨てなかったように思います。

今の日本の社会は失敗を嫌いますし、一度でもうまくいかないとすぐに切り捨てるような厳しさがあるように感じます。それはやはり希望を見失っているからではないかとも思うのです、自己肯定感とか何かを言う人は沢山いますが、私は今はそうは思っていません。

この国に必要なのは「希望」ではないか、子ども達に本当に必要なのはやはり希望だと。
私はそう確信するのです。

その希望をどのように育てるか、希望を与えるかは、自らの生き方で示すしかありません。道のりは長く、そして果てしないのですが、正義のヒーローは希望とともにこの心にいると信じて取り組んでいきたいと思います。

 

心の余裕

心の余裕というものがあります。

人は心に余裕がなければ相手のことや周囲のことを受け容れることはできないように思います。自分で自分の心をいっぱいにしてしまったり、目先のことにいちいち心を奪われてしまい余裕を失ってしまっていたら大切なことは観えなくなるように思うからです。

本来、正しいことを行いたいといくら思っていてもそれは心に自問しながら歩んでいくものでもあるのだから心の中にスペースがなければ判断も歪んでしまっていくものです。

特にコンサルティングなどの仕事は、自分の心に余裕がなければできることではありません。どんな兆候も見逃さず、全体から直観的に布置を覚り、玲瓏冷静な心眼が動いていなければ物事も見通すことはできません。

余裕とはどこから失われていくのかは明確で、頭でっかちに考え出すところから始まります。

感じる事よりも、頭でばかりを働かせて思考が次第に澱めば事物全体の悠大な流れなども見通すことができなくなるのです。

心の余裕はいつも心が感じられる状態でいることを言いますが、そこには心を働かせ続ける実践というものが常に必要なのです。それは言い換えれば心の眼や心の耳、心の感覚というものを日々に磨き続けていくということだと思います。

感じる力というものは、心で決めたことを実行実践している中ではじめて味わえるものです。そういうものを避けて通ろうと頭で計算したり計画してもそこには仮想の世界が広がるのみです。

余裕がある時は、この時の順番も異なるように思います。まずは感じて、そのあとに頭で考えるということなのでしょうが、これもバランスでこの心と頭は同時であればあるほどいいように思います。

しかし一般的には心は頭と違って生もので気づきやすく傷つきやすいのだから先に心の方の動きが痛みを怖がり鈍っていくものです。そういう時こそ、心がいつも鈍らないように思いきった行動をして頭で考えることを善い意味で裏切る「勇気」が必要であるように思います。

感じる力と考える力の間には、恐れや不安を乗り越える「勇気」というものが必用であるように思います。そしてこの勇気は正義を信じることと、心の余裕から湧き出てくるようにも感じるのです。

誰でも等しくこの強さと優しさというものに向き合うものなのでしょうが、私自身も実践を学んでいきたいと思います。

稲の環境

稲の生長を内省しつつもう一度、稲のおかれている環境をゼロから見つめ直すことにした。

何でもそうだけれど、葉イモチや穂イモチが発生してから対応するようなことをする前にどのようにすればそれが発生しないのかと考えなければなりません。

発生してから取り組んでいるのは対処療法といい、本当は発生する条件をその時に取り払うからこそはじめて改善となるように私は思うからです。

今回の稲の件は、やはり日照りと風通しにあったのではないかと思います。そして鶏小屋からの水がホースの目詰まりなどで流れが止まってしまっていたことにも要因があります。

それは今回の環境が、周囲に大きな木に囲まれ木々の間の雑草によって風が抜けない陽が当たらないということに原因があるように思うのです。それに初年度ということもあり、雑草や生態系がまだ落ち着いていなかったこともあるようです。

準備を周到にしていなければ、環境というものは改善していくことはできないように思います。

突然はじめて一気にしようとすること自体が不自然なことであり、やはり手前から一番取り組み易いところでやることが環境に目を向けるための工夫と知恵のように思うのです。

一番取り組み易かったベランダでの稲は順調に育っていて、何の病気にもならず虫にも負けずしっかりとした稲穂をつけています。

ここでは日々の関心と愛を向け、毎日のように観察しながら状況を把握しています。陽が当たるところで、風通しも配慮し、温度も気づかい、そして水も欠かしません。しかし九州の農園では、それが距離的に難しく日々に観察していくことができないのが現状でこれを何とかしなければなりません。

見守るには、たくさんの目が必用でそこには多くのかかわりの中ではじめて育つということが関係しているようにも思えるのです。もっとたくさんの人々や、友人たち、家族の力を借りてやらなければならないと反省しました。

震災があり、復興のため、子ども達のためにとはじめていることがどうしても一人で無理をし突き進もうとしてしまいます。そこには大きな危機感があるし、必ず世直しのためにと気持ちが入り過ぎているからかもしれませんがそうなると不自然になり悪循環するのです。

やはり謙虚さが足りず、信じるということがまだまだ熟していないということなのでしょう。

しかし今回の貴重な体験から環境として一体何を改善しなければならないのかがようやくここにきてまた観えてきました。

環境には、人という環境、場という環境、自然(めぐり)という環境があると私は気づきました。

天道としての環境と、人道としての精進は、いのちが共に育ち育つ関係の中の父母のように絶対的なもののように思うからです。

もう一度、この冬と春へのセカンドシーズンに向けて舵をしっかりきっていきたいと思います。

子ども達の未来のために推譲する心をもって、初心のままに取り組んでいこうと思います。

 

 

視点と観点

野生動物のことを調べていたらモノゴトの見方に、3つの視点があるということがそこに書かれてあった。

その3つとは、まず鳥の目、次に虫の目、そして魚の目ということです。

鳥の目とは、鳥瞰的に物を観るではないですが上から全体を把握するときに使っていく目のことです。仕事でも、全体から考えてから部分に着手する方が正確に本質を捉えた行動が取れるようになってきます。

少し離れて物事を観るときも、このように全体を通して把握するのです。

そして次に、虫の目というものは狭い範囲で活動するためその部分を徹底的に細部まで個別に丁寧に認識し把握していくときに使っていく目のことです。仕事では、目先のこの業務から不健全なことはないか、正しくできているかなどを細かく分析し同じように本質を捉えていきます。

そして最後の魚の目ですが、これは川の流れを読むように目には移らない繫がりの中で大きく方向性や方針を把握していくときに使っていく目のことです。仕事では、今までとこれからだけではなくトータルで観える流れを認識しつつ優先順位を明確にして本質を捉えていくというものです。

他にも創ろうとすれば、ミミズの目であったり、花の目、樹の目などもいくらでも出てきそうなものですがこうやって自然界の目というものを理解することができるのです。

私たちはつい自分の観える世界だけの目でしか、物事を判断しようとはしません。
またそこに実際に起きている偉大な側面というものを観落とし、焦ってしまうのだろうと思います。

しかし色々な目を持てることで、多面的に多角的に暗黙知的に認識することができれば一石二鳥というか、一つの経験や体験から数多くの収穫を得るようにも思えるのです。

収穫とは人間の目だけでみたものだけが収穫ではありません、自然界全体で観えば一体何をもって収穫というかは、その観る目次第であろうとも私は思うのです。例えば、捕食する方でばかりの目で生き物を認識していますが、逆に捕食される側にたってみるとどのように世界が映るのかはまたその見え方によっても異なるのです。

植物が自分ある程度、動物や虫たちに食べられることによって他の生物から身を守るという方法もありますし、共生といっても思い切った共生を実体験から得ているのだろうと思えるのです。全部食べられれば終わりですが、あえて全部は食べないことをなぜ知っているのか、そこに自然への信頼が見て取れるようです。

数々の目を学ぶのも、自然の中に入る事で実感することができるのです。

今後も、自分の目に惑わされないように様々な視点を観点を磨いていこうと思います。

 

対話

人は対話をするとき、自分との対話もあるけれど周囲との対話というものもあります。

私はもともと大切なことは安易には語らずに、心に秘めているタイプのようで誤解されることが多いタイプのように思います。大切なことは、大切だからこそ言葉にしたくないのかもしれませんがそれを聴いていない人を不安にさせてしまうようです。

もともと対話というのは、自他の間でお互いを感じ合う中で通じ合ってはじめて成り立つものです。相手がどのように感じているのだろうかと思っても、その信念の強さや生き方の芯の部分は一緒に行動して実感しなくては伝わらないように思います。

言葉でいくら説明しても、近くにいたり共に何かを真剣に取り組んでいる中でこそ気づくことのように思うのです。

人はその一部分だけを観ては全体を理解することはできません。
またそうではなく一部分を観れば、全体を理解することもできるものです。

しかし対話というのは、積み重ねて折り重なっていく中で何層にも堆積したもので真にできる事のように思います。言い換えれば、時間がかかってしまうのです。

時間をかけて年月を積み重ねていく中で、はじめて思想は顕現していくように思います。

人はみんな自分が観ている世界を通して相手を理解しているからこそ、きっと何かあるのだろうと思いやりをもっていつも接していたいと思います。私には分からないことばかりですが、自分を信じて貫いていたら必ず周囲は分かってくれるのではないかと感じています。

子どものように無邪気に色々なことが体験でき、その全てに求めたものが顕われてくるのを実感する日々です。悩みも深いですが、ご縁あるすべてが自然への学び転換されているのを覚えてつながりや絆の尊さを味わえます。

論語に、徳は孤ならずといいますが、何が徳なのか、どのような境地がそうなのか、振り返ればいつも一人ではないのは感じる事ですが、分かってもらおうとするよりも分からない自分の未熟を恥じて、真摯に初心を貫徹していきたいと思います。

震災後に気づいた復興とは、絆とか、繋がりとか、共生とか、確かにそれを学ぶための自然農でもあったはずです。

対話は自分というものを丸ごと受け容れることができてはじめて成り立つのかもしれません。
納得していないままになってそのままにしてきたものとも向き合いたいと思います。

信頼するということは何か、今はそれを学んでいるように思います。

稲の病気に学ぶ

九州の水田の稲が、イモチ病に感染して穂イモチになりあまり収穫が見込めなくなりました。

葉イモチの段階で気付ければ善かったのですが、はじめての栽培ともあり元気よく育っているようにしか見えず気づいたときには遅かったということなのでしょう。反省し思い返せばこの気づくまでの間の時期に他の事件の解決に向けひょっとしたら忙しく余裕を失っていたようにも感じます。

お米は、新しい環境や、新しい土で新しく生きる中でこの環境に馴染んているともいえます。

初年度からの収穫は期待していませんでしたが、病気の予防や対策など来年に向けて色々と課題がありそうです。虫の対策の方に気を取られていましたが、病気の方には意識がなかったようで何でもそうですがもっと丁寧に見守り観察しておくことに気づかせてもらいました。

何もしない農法だからといって何もしないわけではなく、善く観て信じてどこまで手を出さずにいるかというのは自然農の楽しさでもあります。

しかし病気で稲も苦しかったのだろうと思うと、申し訳ない気持ちとよくそれでもここまで頑張ったねと声をかけてあげています。

学びというものは、尽きることはありません。失敗があっても成功があっても、自分の姿勢を見直すのだから学びは試行錯誤の連続の中でいつまでも続いていきます。

特に人にそれを伝えるようなことをするのであれば、視点を自分の視点、作物の視点、それを伝わる視点の3つから学び続ける必要があります。

今回のことからも、病気にならないためには何が必要なのか身をもって学んだような気がしています。風通しや光加減、水管理、温度、湿度など、自然の中でその成育環境に添って必要な見守りを用意していく必要があったように思います。

ここまでよく頑張った稲を褒めてあげつつ、いのちを全うするまでしっかりと見守りたいと思います。色々なことを教えてくださって、そして来年への希望も与えてくださっていつも自然は私の先生です。

自然は間違っていない、間違っているのは自分自身の不自然なのだと気づける感性を磨いていき、新しい我が家のパートナーでもあるあのお米たちと一緒に学びながら絆を深めつつ共に成長していこうと思います。