人は対話をするとき、自分との対話もあるけれど周囲との対話というものもあります。
私はもともと大切なことは安易には語らずに、心に秘めているタイプのようで誤解されることが多いタイプのように思います。大切なことは、大切だからこそ言葉にしたくないのかもしれませんがそれを聴いていない人を不安にさせてしまうようです。
もともと対話というのは、自他の間でお互いを感じ合う中で通じ合ってはじめて成り立つものです。相手がどのように感じているのだろうかと思っても、その信念の強さや生き方の芯の部分は一緒に行動して実感しなくては伝わらないように思います。
言葉でいくら説明しても、近くにいたり共に何かを真剣に取り組んでいる中でこそ気づくことのように思うのです。
人はその一部分だけを観ては全体を理解することはできません。
またそうではなく一部分を観れば、全体を理解することもできるものです。
しかし対話というのは、積み重ねて折り重なっていく中で何層にも堆積したもので真にできる事のように思います。言い換えれば、時間がかかってしまうのです。
時間をかけて年月を積み重ねていく中で、はじめて思想は顕現していくように思います。
人はみんな自分が観ている世界を通して相手を理解しているからこそ、きっと何かあるのだろうと思いやりをもっていつも接していたいと思います。私には分からないことばかりですが、自分を信じて貫いていたら必ず周囲は分かってくれるのではないかと感じています。
子どものように無邪気に色々なことが体験でき、その全てに求めたものが顕われてくるのを実感する日々です。悩みも深いですが、ご縁あるすべてが自然への学び転換されているのを覚えてつながりや絆の尊さを味わえます。
論語に、徳は孤ならずといいますが、何が徳なのか、どのような境地がそうなのか、振り返ればいつも一人ではないのは感じる事ですが、分かってもらおうとするよりも分からない自分の未熟を恥じて、真摯に初心を貫徹していきたいと思います。
震災後に気づいた復興とは、絆とか、繋がりとか、共生とか、確かにそれを学ぶための自然農でもあったはずです。
対話は自分というものを丸ごと受け容れることができてはじめて成り立つのかもしれません。
納得していないままになってそのままにしてきたものとも向き合いたいと思います。
信頼するということは何か、今はそれを学んでいるように思います。