稲の環境

稲の生長を内省しつつもう一度、稲のおかれている環境をゼロから見つめ直すことにした。

何でもそうだけれど、葉イモチや穂イモチが発生してから対応するようなことをする前にどのようにすればそれが発生しないのかと考えなければなりません。

発生してから取り組んでいるのは対処療法といい、本当は発生する条件をその時に取り払うからこそはじめて改善となるように私は思うからです。

今回の稲の件は、やはり日照りと風通しにあったのではないかと思います。そして鶏小屋からの水がホースの目詰まりなどで流れが止まってしまっていたことにも要因があります。

それは今回の環境が、周囲に大きな木に囲まれ木々の間の雑草によって風が抜けない陽が当たらないということに原因があるように思うのです。それに初年度ということもあり、雑草や生態系がまだ落ち着いていなかったこともあるようです。

準備を周到にしていなければ、環境というものは改善していくことはできないように思います。

突然はじめて一気にしようとすること自体が不自然なことであり、やはり手前から一番取り組み易いところでやることが環境に目を向けるための工夫と知恵のように思うのです。

一番取り組み易かったベランダでの稲は順調に育っていて、何の病気にもならず虫にも負けずしっかりとした稲穂をつけています。

ここでは日々の関心と愛を向け、毎日のように観察しながら状況を把握しています。陽が当たるところで、風通しも配慮し、温度も気づかい、そして水も欠かしません。しかし九州の農園では、それが距離的に難しく日々に観察していくことができないのが現状でこれを何とかしなければなりません。

見守るには、たくさんの目が必用でそこには多くのかかわりの中ではじめて育つということが関係しているようにも思えるのです。もっとたくさんの人々や、友人たち、家族の力を借りてやらなければならないと反省しました。

震災があり、復興のため、子ども達のためにとはじめていることがどうしても一人で無理をし突き進もうとしてしまいます。そこには大きな危機感があるし、必ず世直しのためにと気持ちが入り過ぎているからかもしれませんがそうなると不自然になり悪循環するのです。

やはり謙虚さが足りず、信じるということがまだまだ熟していないということなのでしょう。

しかし今回の貴重な体験から環境として一体何を改善しなければならないのかがようやくここにきてまた観えてきました。

環境には、人という環境、場という環境、自然(めぐり)という環境があると私は気づきました。

天道としての環境と、人道としての精進は、いのちが共に育ち育つ関係の中の父母のように絶対的なもののように思うからです。

もう一度、この冬と春へのセカンドシーズンに向けて舵をしっかりきっていきたいと思います。

子ども達の未来のために推譲する心をもって、初心のままに取り組んでいこうと思います。