人は体験を共有することで思い出というものを分かち合うことができる。
思い出というものは、御互いが同体験をしそこで意味づけしたものこそが共に分かち合ったものになると私は思うのです。
毎日は流れていくものです、それは時がそうなっているように自分の知らないところで最終的な目的地に向かって流されていくともいえると思います。生まれれば、必ず死に向かって流されていくのと同じく最終的なゴールに向かって突き進んでいるのです。
よく流されてしまったと悔いている人もいますが、流されることが悪いことのように思っています。私はそうではなく、流されることではなく流れていなかったことが善くないのではないかと思うのです。
例えば、川に船を浮かべて旅をすれば川下に向かって船も進んでいくものです。そこで観えた景色やそこでの体験というものを意味づけし味わおうとはせずに船着き場へ到着してしまったらそこでの旅は何を学びそしてどうだったかということになるのです。
そこで一緒に旅をした仲間との思い出、そこで一緒に体験した素敵な思い出、苦しみもまた楽しみも悲しみも、どんな些細なことでもこの無二の旅を楽しみたいと決めていたならば大切なのはゴールすることではなくそのプロセスの方であったと誰でも気づくことができるのです。
そしてこれは体験の意味づけにこそあるように思うのです。
みんなで体験したことをどれだけ沢山の人達と意味づけしそれを共有するかで、思い出の質も量もかけがえのない美しいものにしていくことができるように思います。
日々の出来事ひとつひとつを気づき掘り下げ、それを流れながら意味づけるということこそが人生の点を線にして面にするような生き方であろうとも思うのです。
生き方というものは、如何に日々の出来事を大切に過ごしていくか、如何に流れることを味わうかに尽きると私には思えます。
そういう旅を一緒に味わえる人たち事がパートナーであり、朋であり仲間であろうと思います。
体験の意味づけをしつつ、これは本当は何かという連続の中で様々な真善美に気づいていこうと思います。
最幸の流され方を楽しんでいきたいと思います。